第28回男く祭

井上論文


「男く祭」について


久留米大学附設高校 第28回男く祭実行委員長
井上 和久 (47回生)



はじめに

 5月1日、第28回男く祭の実行委員長としての務めを果たした翌日のことである。現代文の時間に八百字の原稿用紙が配られた。今から、「男く祭」の感想を書けということらしい。すぐにはペンを走らせることは出来なかった。文化祭実行委員会発足以来、私は「男く祭」中心の生活を送って来た。その日々を振り返ろうとすると、様々な出来事が頭に浮かび、何から書き始めたら良いのか分からず、虚脱状態に陥った。この甘美な思い出を高校時代の1ページとして記録に残しておきたいという思いはあった。しかし、「男く祭」の熱が冷めてない今の私が、それらの出来事を冷静な視点から客観的に振り返るのは難しい。それに、私がその体験を通じて感じたことや学んだことの全てを書き表すのは不可能である。また、私の未熟な表現力によって、その体験を自ら汚したくないという思いもある。だが、私には第28回男く祭の総括として、今年度の文化祭を通じて得たことを記録に残すという責務がある。だから、十日間の冷却期間を置いて、書き始めた。それが後輩に何かの形で役立ち、附設の男く祭が更に洗練され、もう一段高いレベルに飛躍すれば幸いである。


1. 徳安論文との出会い

 私は、前実行委員長の緒里先輩から過去の資料を引き継ぐと、すぐにその整理に取りかかった。新生徒会発足から間もない6月下旬頃である。その大部分は、最近2、3年の資料だったが、古いものになると10年近く前のものもあった。先輩が残した記録や使用した書類を眺めていると、男く祭執行部で受け継がれ、培われて来た伝統やそこに脈々と流れている血を肌で感じ取り、身震いがした。どの年の男く祭も知性と情熱を最大限に注ぎ込んでおり、他の年とは違う輝きを放っていて素晴らしい。私は、今年はどんな「男く祭」を創っていこうかと夢想しながら、昨年度私が使用した文化祭ファイルをめくっていた。しばらく眺めていると、「文化祭について」という23回生文化副委員長の徳安先輩が書いた論文が目に留まった。一年近く前のこの論文との出会いが、過去の「男く祭」の伝統を見直し、私たちにとっての理想的な文化祭の在り方を問う契機だった。紛れもなく二十年近く前に書かれたこの論文が私を感化し、「男く祭」の新しい方向性を見出したのである。


2. 徳安先輩に手紙を出すまでの経緯

 9月に入り、いよいよ文化祭実行委員会発足という時期になって、広報の山本君から今年の文化祭の方針を生徒会報に掲載して欲しいという要請があった。全校生徒の男く祭への意識を高めるのが目的であった。早いに越したことはないので、すぐに原稿を書き始めた。もちろん、徳安論文を参考にして、自分自身の意見を述べるつもりだった。しかし、読み返してみると、私が書いたものは徳安論文の模倣であり、それにはとても及ばない稚拙な文章だった。自分が書いてみて分かったことだが、徳安論文を読んだは良いが、真の理解には達していなかったのである。自分の力では、どうしてもうまくまとめることが出来なかったので、西原先生に相談に行った。私がその旨を先生に話すと、「それなら、徳安先輩に手紙を書いてみなさい」と全く考えてもいなかった解決策が提示された。
 それから、徳安先輩の担任だった大津留先生に事の成り行きを話し、連絡先を調べてもらった。徳安先輩は現在法政大学で社会学部の教授をされている事がわかった。私は迷った。山本君と約束した締切まで数日しか残されていない。それに、多忙な方である。二十年も前に卒業した先輩が、母校とは言え、高校生を相手にしてくれるのだろうか。しかし、迷っていても仕方がない。この現状を打開する最良の策は、この他には見当たらないのだから。定期考査も近かったのだが、この機会を逃しては延び延びになると判断し、徳安論文を読んで自分が感じたことと先輩への質問事項を手紙にまとめた。そして、笹尾君に頼んで法政大学宛に電子メールで送る事にした。
 12月の上旬頃、メールで返事が来た。それは予想していた以上に長い手紙だった。社会学者の見地から私の質問の一つ一つに丁寧に答えてあった。大津留先生は、「こりゃ、名文ぞ!」とその手紙を賞賛された。その手紙のやり取りは、3学期に入って文化祭広報紙に何号かに分けて掲載した。それがどれだけの効果を全体にもたらしたのか分からないが、内容を読んだ人の話を聞くと感化された人もいたようだ。男く祭への意識高揚という目的に一役買ったに違いない。しかし、私はその返事を頂いたものの、その後は男く祭まで実務に追われる日々が続き、文化祭についての自分の考えをまとめずじまいである。男く祭が終わった今なら、その体験を通して得たことを、記すことが出来るのではなかろうか。


3. 「文化」祭と文化「祭」

 徳安先輩は、「文化」祭と文化「祭」という二つの言葉を使い、その実像を鮮明に照らしてくれた。「文化」祭とは、いわゆる「文化的」な展示やパフォーマンスが充実し、日頃の文化活動のレベルの高さを発表する場である。一方、文化「祭」とは、学内外の人間が文化を肴に楽しい「祭」を作り上げる場である。この二つの言葉の定義を示された時、私達が目指すべき文化祭の像をはっきりとつかんでいなかった事を思い知らされた。
 私は、過去に高校の文化祭を3つ、大学の学園祭を3つ見て回った事がある。自ら文化祭を創る側に立った時に役立つだろうと考えたからだ。その経験から、それらをこの二つの定義に当てはめると、高校では前者の傾向が強く、大学では後者の傾向が強い。なぜなら、高校生には学校や教師の強制力が働くが、大学生は良識の範囲の活動は許されているからだ。ただし、どちらもその傾向が強いと言うだけで、極端にどちらか一方という事はあり得ない。大学でもその高い文化水準を展示するし、高校でも「祭」を十分に楽しんでいる。どの学校の「文化祭」も、その学校のカラーが出ていて面白い。思い掛けないものに出会う事もある。しかし、逆もまた然りである。前者を装ってはいるが、やらされている印象が強く、見るにたえない「文化」。また、後者を装ってはいるが、ただ内輪で盛り上がっているだけの「祭」。
 このことを本校の「男く祭」にあてはめると、「文化」では、展示、演劇、講演、コーラス大会があり、「祭」では、バザー、各種イベント、ライブがある。ただ、本校では文化部が少ないため、他の高校に比べると、展示の絶対数が少ない。また、近年はバザー過多の傾向がある。足を止めて見る展示が少ないのは、父兄を初めとする「文化」を求める来客にとっては、魅力が足りない。また、エンターテーンメントの盛り上がりを追求するあまり易きに流れ、「祭」一色に染めてしまうのには問題がある。私達が心から求めるは、そんなものではない。文化を背景に、本校生の情熱と理性によって築かれたものを来客に味わってもらう。私達と客がそれら創造物を共有し、またそれらを通して共感するのである。近所の夏祭りと違うのはその点である。そういった要素が、「男く祭」には足りないのではなかろうか。たとえ、客が「文化」を求めてはいなくても、創る側の工夫によっては、文化が本来持っている楽しさを引き出せるはずである。


4. あるべき展示の姿

 「文化」を通して本校生と来客が触れ合い楽しめる空間は創れないだろうか。ここでいう「文化」は、真面目で重たいイメージのものだけではなく、誰でも取っ付きやすい広い意味での文化も含む。理想を言えば、重たいイメージの文化的なものを私達の工夫により、もっと軽快な魅力的なものにして表現するのである。つまり、私達の創意工夫によって、客を楽しませるのである。それは、発想としては単純なことで、誰でも気付くことである。そんな「文化祭」を創ることができれば最高であろう。しかし、それを実現するのは並大抵のことではない。特に、「文化祭」の「文化」を支える展示が、それとは程遠い状況にあるので、「展示=つまらない」というイメージが定着しつつある。ここでは、展示に対象を絞って、具体的にどういう工夫が必要なのかを記そうと思う。
 まずは、いかにも文化的で取っ付きにくい企画、展示を親しみやすくする方法である。徳安先輩は「知ってるつもり」「女神の天秤」「驚きもものき20世紀」等の番組を例に挙げ、「プレゼンテーションの技術というものには、できる限り気を遣った方がいい」とアドバイスして下った。これらの番組は、シリアスで社会派のテーマを最新の知識と映像を駆使して、魅力的なものにして提供している。真面目で高尚なテーマでも、作る側の工夫よって親しみやすくしている良い例だろう。
 私達は、今回の文化祭でこの提案を活かせたのだろうか。保健委員会は、毎年「エイズ」「食」「いじめ」等の社会問題を取り上げ、質の高い研究発表をしてきた。今年も「ゴミ問題」をテーマに、半年近く前から取り組み、立派な展示に仕上げてくれた。特に、冊子の出来栄えが素晴らしい。過去に保健委員会が作成した冊子のどれをとっても、これ程読みやすく、そして内容が充実したものはないと思う。ゴミ焼却場やゴミ埋立場への見学、ゴミ減量実験、「ゴミ問題の解決策」の討論等、実際に自分達の手足を使って調査し、それらを通して自分達の見解を示しているため、読んでいて飽きさせない。また、何よりも、図やグラフを多用しているため読みやすく、そして装丁もしっかりしているため、冊子としての魅力にも溢れている。プレゼンテーションの技術を最大限に活用していて、読みやすさを想定した製作者の意図が憎らしい程伝わってくる。今年の「男く祭」のグランプリは、その点が評価されたと思う。
 ただ、私が残念だったのは当日の展示状況である。冊子の内容は素晴らしいのに、それを充分アピール出来ていなかった。室内が閑散としていて、物足りなさを感じた。模造紙に研究成果を発表していたものの、絶対量が少なかったと思う。その一つ一つを客が見ることが大事なのではなくて、まず展示の空気を作ることが大事だと思う。また、その研究成果を客に説明する人間がいなかったため、多くの客が素通りしているようだった。
 逆に、職員展示では、先生方が興味を持ってはいってくる来客に対して、自分の展示物の前に立ち、一つ一つ細かく説明をしていた。先生方の表情は生き生きとしていたし、来客もそれに呼応するように聞き入っていた。これこそ展示のあるべき姿ではなかろうか。
 人を楽しませるということは本当に難しいことである。さらに、その楽しむ対象も千差万別である。エンターテイメントとしての「文化祭」を求め、各バザーを回って飲食したり、ライブ、ステージを見て楽しむ人もいる。また、知的欲求から展示や研究発表をみたり、講演を聞いて楽しむ人もいる。こういった来客のニーズに応えることが、彼らを楽しませることであるが、それは自分が楽しんでいるという前提の下に成り立つものである。
 今年の「男く祭」では、まずは客に楽しんでもらうという目標を掲げ、性格診断、寿命測定、プリクラ撮影所を用意した。この3つの展示は、店員が楽しんでやっていたと思う。そして、性格診断、寿命測定は、誰でも気軽に無料で受けられる事から人気を博していたし、プリクラ撮影所は、デジカメを使ったオリジナルプリクラを用意した。三者とも客を楽しませる工夫を凝らしていた。他にも、お茶展示という紅茶の研究をした店があった。彼らは自分達の趣味の延長で店を出し、冊子を作るだけでなく、来客がお茶を楽しめるよう場を提供していた。これも理想的な展示の姿だと思う。
 「男く祭」の展示の多くは、「展示はかくあるべし」という洗脳に近い固定観念に執着し過ぎている。楽しんで研究をし、魅力的な発表にする方法はいくらでもあると思う。彼らが研究した成果を来客に対して事細かく説明し、客が興味を持ったならば、それについてお互いの意見を交わすことを実践するだけでも雲泥の差である。彼らは、観念に捕らわれた文化的に素晴らしい展示を目指すあまり、客に共感を求め、その成果を共有するという展示の本質を見失っているのでないだろうか。展示は、まず私達が楽しんでやらなければならない。それを作る過程で、本当に楽しんでいるだろうか。やらされてはないだろうか。展示の責任者は、そんな問い掛けを常に発して欲しい。


5. 講演について

 文化祭2日間のうち、一日は市民会館にて行われる。各界で活躍されている方をお呼びしての講演は、その目玉であり、その年の「男く祭」のカラーを決めるといっても過言ではない。例年、早くから交渉にあたり、たくさんの予算がつぎ込まれ、利根川進氏を始めとする大物に講師を依頼してきた。私もこれまでの実行委員長同様、講演に関しては数名のメンバーと夏休み前から取りかかっていた。
 例年、一日目の疲れからか、話がつまらないのか、居眠りををするものが少なからずいる。まず、私達はこの点を克服しようと考えた。しかし、中1から高3、教師、父兄という幅広い年齢層の多種多様の好みを越えて、皆を虜にする講師を選ぶのは難しい。だから、エンターテーンメントの要素を盛り込んだものを考えた。しかし、タレントを呼んでおちゃらけ話で盛り上がるというような真似はしたくなかった。それならTVでも代用可能であるし、「文化」祭の講演としてある一定の文化的レベルを保ちたかった。また、どうせ知識人を呼ぶなら、有名な大物を捕まえて「文化」祭の目玉にしようという野心はあった。
 それを踏まえた上で、エンターテーンメント性があり、更に文化的なものとして、私の頭に浮かんだのは落語だった。そして、私はメンバーに提案した。一部の人間は賛成してくれ、中には桂文珍氏の名前を挙げるものもいた。しかし、どうやら落語には好き嫌いがあるらしく乗り気でない者が多かった。一方で、村上龍氏の名前が挙がった。これは、講演委員の加藤君の個人的なコネがあるからという理由だった。これには、慎重派の人から「先走り過ぎではないか?」とか「みんなの意見を反映してるのか?」とか「もっと多くの意見が出た上で、厳選して決めた方が良いのでは?」という反対意見が出た。確かに一理ある。しかし、著名人を呼ぶこと前提とした講演では、実はこちらが選ぶのではなくて、こちらが選ばれるのである。
 講演には、全校生徒の関心も講演に集まり、周囲から様々な意見が出るのだが、それを反映できない理由はここにある。昨年もそうだった。全校生徒からの意見を募り、小林よしのり氏、櫻井よし子氏、ニコル氏、広中平祐氏等の有名人と交渉したが、悉く断られた。売れている人は忙しいのだ。講演日時もすでに決まっていて、50万円以内で高校生相手に話したがる有名人は稀である。しかも、回答はすぐ返ってくるわけではない。相手の思わせ振りで、期待して待っていると酷い目にあう。広中氏には、回答を数カ月先伸ばしにされた上、結局断られた。相手にとっては、所詮九州の一高校からの依頼でしかないのだ。だから、個人的なコネがある場合、それを優先させるのが良い。村上氏に関しては、賛否両論分かれたが、こういった理由から私は敢えてプッシュしたのである。しかし、残念ながら、加藤君の頑張りも虚しく、断られてしまった。それから、同じく講演委員である蓮澤君の知り合いの出版社のコネで、加藤周一氏にあたった。しかし、加藤氏は健康状態が危ぶまれていたため、中止した。一学期中に決めてしまおうと、六月から動き出した講演委員だったが、結局、講師が決まらないまま夏を越した。
 いよいよ九月に入り、生徒間でも講師は誰なのかという話題が出始める。私達の焦りは募った。そして、九月中旬実行委員会が結成され、蓮澤君が正式に講演委員長に就任した。これまでは、私の主導で動いていた講演委員も、彼がリーダーシップを執るようになってから、カラーが変わり始めた。彼は、私とは講演に対する考え方が大きく違っていたのである。私はこれまでの実行委員長同様、有名人を呼ぶことに躍起になっていた。なぜなら、名前がある人の方が生徒間でのウケが良いし、そうしたら多くの人が関心を持って聴いてくれると考えたからである。また、例年、講師はある程度知名度がある人だったから、無名の人を呼んだ場合、失敗の烙印を押されてしまう。これまでの「男く祭」もそうだった。だが、よく考えてみると、これまでの「男く祭」の講演は有名人を呼ぶことで完結して来たのではないだろうか。有名人を呼んだことに満足し、演題は講師任せでは講演の本来の目的を見失っている。
 しかし、彼はこれまでの「男く祭」の講演とは、違った在り方を目指していた。彼は、まず各学年から代表を選出し、新しい講演委員会を結成した。そこでは、「誰を講師に呼ぶか」ではなくて、「何を聴くか」という演題を話し合ったのである。そして、その内容に適した講師を選ぼうということになった。その際、中身が重要なのだから、講師の名前は必要ではないし、有名人を呼ぶのとは違い、しっかりした人選も可能だ。私は、この動きに多少の戸惑いを感じなかったわけではないが、彼に講演委員長を任せた以上、彼の思うようにやってもらおうと思った。それから、事は順調に運び、十月までには、テーマは「薬物」に決定し、講師は日本ダルクでゲリラ的活動を繰り広げておられる西村直之氏にお願いした。


6. ザ・ニュースペーパーを呼ぶに至った経緯

 講演は、十月までに目処が着いた。予算も10万以内でやれそうだった。しかし、私には物足りなさが残っていた。講演の「質」は、西村氏と講演委員会との打ち合わせで最高のものに仕上げてくれると信じていた。また、有名人を呼ぼうという私のくだらない野心もなくなっていた。ただ一つ気になっていたのは、中1から高3までの全校生徒が楽しめるかという事である。どんな講師であれ、どんな演題であれ、興味のない人には無価値である。私達の努力次第で多くの人を惹き付けることが出来ても、講演の性格上それには限界がある。なぜなら、人の好みは多種多様だからである。聴く側が聴きたいと思う演題やテーマと違っていれば、こちらがいくら頑張っても無駄である。中には、「講演なんてつまらないから寝る」と決めこんでいる人もいるのだ。残念な事に、彼らの「男く祭」2日目の午前中は、睡眠時間と化してしまうのである。彼らがそれを選んだのだから、おせっかいは無用なのかもしれない。しかし、それは全員が「男く祭」に参加している事にならない。私が昨年の市民会館における「男く祭」に物足りなさを感じたのもこの点である。私は、一人も余すことなく全員が、この「男く祭」に何らかの「楽しみ」を見出して欲しいと願っている。だから、誰もが共感しやすいエンターテーンメントの要素を濃くしたものを提供しようと考えたのである。
 エンターテーンメントにも多少の好みは分かれるだろうが、大抵のものは広く多くの人に受け入れられやすい。また、聴く側も身構える必要がないため、参加しやすい。しかし、面白さを追求するあまり、易きに流れ、タレントを呼んでも仕方がない。中身がない人を呼んでも、面白いだけで何も得るものはないからだ。全校生徒の貴重な時間と予算を割くわけだから、ある程度質の高いものを用意しないと申し訳ない。そこで、前に考えていた落語を提案した。しかし、残念ながら実行委員会では不評だった。
 何か良いものはないかと考えていたある日、時事コント集団「ザ・ニュースペーパー(以下TNP)」を思い出した。その名の通り、最新ニュースをネタに、社会を風刺して笑い飛ばすコントグループである。私も大橋君に誘われて二度公演を見に行った事があったが、その度にあまりの面白さに笑うどころか、感心させられた。彼らは、世相を鋭く斬った風刺で、私達が世の中の出来事に感じている事を代弁してくれるのである。それはある意味、落語に似た面白さである。現代版「落語」といったところだろうか。この面白さは、一見の価値がある。また、その質の高さは、全校生徒に提供する事に対しても遜色ない。
 早速、私は実行委員会に提案した。まず実行委員会でビデオを見てもらった。その後、感想を聞いた所、「面白いから是非やろう」と言う人と、「それほど面白くないし、何しろ予算がかかり過ぎる」と言う人で、半々に分かれた。私と大橋君は、生の公演を見た事があり、その面白さには確信があったが、ビデオだけではその全てを伝えるのは不可能だった。直接プロダクションに問い合わせた所、60万という回答だった。私は、この位の予算を注ぎ込む程度の価値はあると思っていたが、周囲の反応は悪かった。60万という金額は、文化祭の予算内では負担が大き過ぎる。だから、そのうちの移動費と宿泊費の15万は何とかお願いして、学校に払ってもらう事になった。
 最終的に45万という予算を実行委員会に提示した。しかし、反対派の声が根強く残り、その中の一人が「反対の人がこれだけいるのにTNPの公演をするのは無茶ではないか?」と言った。そこで、反対派の人数を確認した所,半数近くの手が挙がった。決定は次週に持ち越しになった。それから私は、彼らを説得する材料を集め、一週間後の定例会で彼らにTNPを呼ぶに至った経緯を説明したプリントを配布した。内容は、前述の通りである。それに目を通してもらった後、私は「TNPを呼ばないのならば、それに変わる企画案はあるのか?」と尋ねた。そして、「建設的な代案を出してから、反対してくれ。」と付け加えた。多くの実行委員は、一日目学校で行われる「男く祭」の企画が先行するあまり、二日目市民会館の企画は頭になかったようである。岡本君ただ一人が、イッセー尾形の一人芝居という企画案を出したが、これ以上の予算がかかるのには無理があるので、廃案になった。この定例会以降、反対派の声は急におとなしくなった。


7. 2日目、「市民会館」を振り返って

 西村氏には、多くの薬物患者を通して得た経験、薬物を研究した上で得た知識をもとに、薬物の現実と本質を本音で喋って頂き、実に刺激であった。自分の書いた本の内容を喋ってお茶を濁す講演者とは比べものにならない凄みがあった。一方、TNP公演は、私の読み通り大好評だった。昔からおられる先生も、今までの「男く祭」で、これ程市民会館が沸いた事は記憶にないとおっしゃっていた。たくさんの人が「六年間の中で、一番面白かった」と評してくれた。他にもソプラノの小西雅子氏のコンサートも行った。これは福山君のコネを使って交渉した。氏はこちらの予算の事情を察し、ほとんどノーギャラで承諾して下さった。そして小西氏も美しい歌声で、「男く祭」に花を添えて下さった。これらのイベントは、前年を踏襲したものではないし、また、大人の力を借りたものではない。私達が独力で企画し、一人のクライアントとして相手と交渉し、勝ち得たものである。一から十まで私達の自主性に任されている附設生徒会の伝統は、私達にチャンスを与えてくれた。そして、私達はそのチャンスを十分活かし、マンネリ化しつつあった市民会館での「男く祭」に、新たな在り方を示す事が出来たと思う。


8. 附設生の特性

 私達は、全体でまとまって行動をするのは好まない。顕著な例では、体育祭がある。他校に見られるように、クラスで縦割りにし、上級生が統制をとるようなことはしない。応援団を除いたほとんどの競技は、学年を越えたクラスマッチである。また、各クラスに実行委員はいるが、クラスをまとめるリーダーというものではない。クラスが一丸になって選手を応援し、必死で優勝を目指しているという雰囲気でもない。もちろん、クラスの勝利を望まないものはいない。しかし、多くの人は、自分が競技に出場しない時は、食堂で飯を食ったり、友達と談笑する等、各々自由に過ごす。そして、自分が出場する競技では、まず自分が入賞するために頑張る。クラスのポイントは二の次である。個人競技が多いため、どうしてもそうならざるを得ない。また、事前にみんな集まって練習することは少ない。逆に、私達がそれを望んでいないから、個人競技が多いのである。
 日常の学校生活においても、同様のことが言える。そういった個人主義の空気が、現在の附設の校風を作ったのだと思う。附設生のこのような特性を把握した上で運営を行わなければ、男く祭を盛り上げることは出来ない。なぜなら、文化祭においても「学校全体でのまとまり」や「ある限定された指向性」を全面に押し出すのでは、大方の本校生のカラーにそぐわず、彼らは反応しないからだ。これらを追求すれば、その枠から外れる者が少なからずいる。そうすると、「祭」の活気も失ってしまうだろう。だから、私は附設生のこのような特性を逆手にとって、あらゆるものが混在してばらばらであるが、それらを個々として見た時、輝きを放っているものを目指そうと考えた。


9. 実行委員会の仕事〜仕掛け作り〜

 附設生が「全体としてのまとまり」を好まないのは前述のとおりである。だが、自分がその目標や対象に関心がある場合、凄じい能力を発揮し結束する。また、それを実行する集団が、自分と気の合う者なら尚更である。誰でも、労を惜しまず打ちこめる知的欲求を持っているだろう。そうでなくても、何か自分の特性を活かせるものが何かあるはずだ。文化祭では、そういう自分の土俵で相撲を取れば良いのだ。同志が集い、お互いが自己を表現し発したものを共有する場である。たとえ小さくても、ある指向性を持った集団がたくさんあることは、文化祭を活気づせるのに繋がるのである。
 しかし、確たる動機が無ければ、こういった集団は形成されない。だから、実行委員会はその仕掛けをするのが最も大事な仕事である。ある目的に対して、それに最適な人材を集めるのである。最適な人材とは、それに対して関心を持っていて、その集団において能力を活かせる人間である。つまり、日常の人間関係を基礎にして同じ指向性を持った人間を集めることが、そういった集団を形成するための人材確保である。例をいくつか挙げよう。
 今年の男く祭の「文化」の目玉は、何と言っても記念文集「khaos」である。その事業は、初めの計画より拡大していったが、なにしろ予算がないために、印刷・製本以外の全ての作業は自分たちで行った。
 まず、約150名の卒業生をリストアップし、そのうち約40名の方に原稿を依頼した。画家、デザイナー、ジャーナリスト、官僚、裁判官、判事、弁護士、医師、建築家、大学教授、大学生等、様々な職業の先輩方が快く引き受けて下さった。そこから、E-mail、FAXを使って要項を送り、原稿を待った。そこまでは順調であった。しかし、原稿依頼から締切まで2ヶ月もなかったため、最終締切の春休み明けに、半数近く届いていない状況だった。原稿が一通り出揃ったときには、すでに文化祭二週間前だった。次から次へと到着する原稿をパソコンに打ち込み、入念に校正した後、編集する。文化祭一週間前は、忙しさのピークで、主力メンバー全員が学校に残り、夜十時近くまで作業する日もあった。打ち込んだ原稿がパソコンの操作ミスで消えてしまうと言う大失敗も経験した。「これ以上は待てない」と印刷所が設定した最終締切の朝、滑り込みで、卒業生35名、在校生14名による160ページに及ぶ文集が完成した。
 当初、記念文集「khaos」は、作成予定はなかった。そのため、校内企画の会議で文集作成が決定した時は、その担当の実行委員を確保していなかったのである。そこで、校内企画委員長の岡本君が、文集作成に当たって適当な人材を急遽集めることになったのである。その結果、実行委員会の担当(バザー、渉外等)を越え、また、実行委員以外からも数名選出されたのである。メンバーは、仲間内で集まったというわけではなかった。しかし、彼らは文集作成に興味を持っており、それは各々の持つ特性を十分に活かせる土俵であった。だから、彼らは文集委員会として組織を形成し、確たる動機を持って活動出来たのである。そして、その事業は各方面から高く評価されるに至った。
 一日目のイベントで、講談、音楽会、クイズを催した。講談の演者は、高1の田中慧君、大津留先生、西原先生にお願いし、音楽会は有志を募った。二つとも初めての企画であったが、生徒と教師が日常の枠を越えて積極的に集まった。どちらも好評で、当日は、たくさんの客が入った。クイズには、附設のクイズ好きが多数参加し、まずまずの盛り上がりを見せた。
 また、附設BOX、プリクラ撮影所、将棋展示等は、元々は実行委員会内の企画であったが、責任者を中心にそれに関心がある者や、向いている者を集めて活動した。バザー・展示も、初めは応募が少なく、個性に乏しいものが多かったので、来客のニーズに応えるような企画を実行委員会で考えた。そして、各学年各クラスのグループ関係に目をつけ、企画案を提示してそのメンバーで出店してくれと呼びかけた。何かをしようとは考えているが、きっかけがなくて持て余している人はたくさんいる。ある程度の仕掛けを作れば、おのずと人は集まってくるのである。そして、後はそこに集まった人々により、その集団はある指向性を持ち、自分たちの特性を活かし創造していくのである。また、それら仕掛けの選択肢を増やせば増やす程、多くの人を巻き込んでいき、「文化祭」に活気が出るのである。
 実行委員会は、そういった仕掛けの母集団である。あらゆる仕掛けを作り、そこに人を集め、創造する。例年、実行委員会は30名程の組織であるが、必要に応じてその数を増やして行ったため、最終的には50名の大所帯となった。それに対しては、「統制が取れないし、ことなかれ主義がはびこるだけだ」という意見も出た。しかし、「文化祭」を振り返ると、確かに彼ら50名の文化祭への意識は高く、積極的に参加し、彼らが核となって小集団を形成し全体を巻き込んでいったのは確かである。事実、自由参加にもかかわらず、今年の3年生は、バザー、展示に参加していない者、委員等にあたってない者は、各クラス3、4名であった。
 附設生は、全体としてまとまりを好まない。私も当然その一人であり、それを必要だとは思っていない。「小さくまとまる」という表現があるように、「まとまり」という言葉は、個性的な人間、奇抜な人間を排除する。そして、たとえ若さから来る強い衝動に駆られても、その「まとまり」を抜けて行くことは許されない。膨大なエネルギーを持つ彼らは、全体の調和を乱す危険性も合わせ持つ故に、周囲に抑制され、その牙を抜かれる。
 仲間内で集まっただけの実行委員会は、何事もなく平穏に事が進む。しかし、お互いの主張が交わされる事もなく、物足りない。また、自閉的な枠に捕らわれ、そこから外へ踏み出せない文化祭は、エネルギーを持つことが出来ない。一方、学年、クラス、グループといった日常の学校生活の枠を取り払って結成された実行委員会での活動は、実に新鮮で刺激的である。そして、そこでの激しい主張の衝突は、更なるエネルギーを持って発動する。あくまで単一民族を主張する島国根性を引きずるか、ヘレニズム世界のように、何でもござれのコスモポリタニズムに至るかの分かれ道である。私達は、ことなかれ主義に陥ることなく、そういった各々の衝動の全てに対して寛容でありたい。全体としてまとまるのではなく、それらを共有、共感出来る「男く祭」を築いていこうではないか。


最後に

 私は、二年間の生徒会役員としての集大成ともいえる「男く祭」において実行委員長という大役を任され、多くの人々と関わることが出来た。通常の学校生活では、自分に身近な友達ばかりと接しがちである。しかし、「男く祭」を通じてその枠外にいる人間と出会い、ある時は激しくぶつかり、傷つけ合った。また、ある時は共鳴し腹から語り合い、苦楽を共にした。常に、金欠病という不治の病に侵されながらも毎日を生きていたこの日々を、一生忘れることはないだろう。私の力が及ばない所がありながらも、その職務を全うすることが出来たのも、周りの仲間達が私を励まし、力を貸してくれたお陰である。私が「男く祭」で得た最大のものは、紛れもなくこの仲間達だ。
 「文化祭」が終わって、二か月過ぎた今、私は記念文集「khaos」を読み返している。世代という時間を超え、活動の空間を超えて、人々が生身の自己を主張しながら集合し、一冊の本になった。私はこの本に伝統を育んできた先人の魂と、その中で生きている自分の人生の可能性を考える。偉大な先人の前に、私の存在は実に小さい。「何者になるのだろうか。」という不安が込み上げ、押し潰されそうになる。しかし、この文化祭をきっかけに、今までの自閉的な枠を超え、もっと広い外の世界に仲間達と踏み出した一歩は、自分にとって決して小さなものではなかったと思う。

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