先生方からのメッセージ

大津留先生

98/03/13 更新



  姿
   福岡県 大津留 敬

あかときのひかりのなかに髪を
梳く白寿の母の姿しづけし

  右は本年歌会始の
  選歌に選ばれました

  平成九年一月十四日
  宮内庁長官 鎌倉節


(原文は縦書き)
  白寿のいのち
大津留 敬(歩道)


手をとりて歩む食卓までの十歩老母の手のぬくもり伝ふ

ひとさじの粥の嚥下(えんか)も安らかに白寿の齢母生きたまふ

八人のおのが子の名をつぎつぎに呼びて白寿の母すこやけし

百年を生きたる母がうつつなき声に確かに涅槃経唱ふ

梅干を吸ふ力あり九十九歳の母のいのちのよみがへりきつ

われを生みし陰(ほと)も尊くおん母を抱きて老のむつき替へけり

床ずれの薬を塗りぬ老い果ててすでに痛みのなくなりし母よ

生まれたる家に帰ると言ひ給ふ山口の仁保の竹藪の家に

宵々に尾をひくハレー彗星を土塀に寄りて母見しといふ

日本海海戦の砲のとどろきを母幼くて聞きたりといふ

鉄幹の語る自由恋愛論頬染めて乙女の母聞きしといふ

百年の命はつひに絶えゆくか出で入る息のかすかりなりぬ

手足より冷たくなりぬおん母の老い極まりし身をさすり合ふ

ふるさとのわが家のなか百年のつひのいのちの息やみたまふ

彫り深き母のみ顔ぞ百年のいのち終へたるしづけさあはれ

み柩に入るると母を抱くときひと夜過ぎたるぬくもりのあり

年老いし兄より母の骨拾ふ燃えて清らになりしみ骨を

はらからの拾ひあつめし母の骨ひとつの壺の中にをさまる

咲き終へてみづからしづむ睡蓮の花いとしみし母いまは亡し


  附設50周年−−魂のルネッサンスを
大津留 敬


●受験戦争の中で

 われわれ担任団は寄るとさわると45回生である。外部模試がよかったら、「45回生の英数はスゴイですねェー」とくる。第一回構内模試の成績が出ると、「ホントに45回生は大丈夫ですかねェー」であり、臨時の職員会議があるというと、「マサカ45回生が何かしでかしたのでは?」とくる。

 1学期がやっと終わり、夏の課外、各種模試、体育祭、防衛医大の入試、センターテストと45回生最後の2学期が、そして3学期が怒濤のように迫ってくると、生徒も先生も次第に緊張し、いささか殺気立ってくる。この圧倒的な受験戦争の流れに皆押しながされてしまいそうになるのだが、ここでひとつ立ち止まり、頭を冷やしてみるのもよいではないか。

 諸君が45回生であれば、高2の諸君は46回生である。高1は当然47回生。来年高1になる今の中3は48回生。中2が49回生。そしていまなお黄色い声を張り上げて走り回っているいる中1は実に附設高校50回生となるのだ。来年中学に入学する連中が高校生となる平成12年は西暦2000年となり、わが附設高校は新しい半世紀の第一歩を21世紀と共に歩み始めることになる。この時に当たって過去の半世紀を振り返ってみることはいささか意義あること思うが如何。



●初代校長板垣政参先生

 附設の正門を上りつめた植え込みの中に板垣先生の胸像は建っている。この胸像は昭和55年(1980年)先生を慕う同窓生を中心として建立された。現代のわれわれはこの胸像を通してしか先生を思い見ることはできない。

 戦前、久留米は旧日本陸軍の拠点としての軍都であった。その久留米を平和な学問と文化の都市とするために、ブリジストンの創業者石橋正二郎氏は戦後、陸軍の施設の払い下げを受けられた。それが、現在の久留米大学御井学舎である。戦前からある旭町の医学部に加え一大総合学園を作る−−これが久留米大学理事長石橋正二郎氏の考えられた壮大なプランであった。

 敗戦後のガランとした兵舎跡、そこがわが附設揺籃の地であった。今の御井学舎のテニスコートのある場所にあたる。ここに板垣校長を中心に数人の超ベテランの先生方、そして私学ゆえに校区を越えて集まってきた百余名の1回生の先輩達によってわが附設は誕生したのである。板垣校長は生徒一人一人に「紳士たれ」を説かれたと言う。この言葉にはご自身が経験された良き時代の旧制高校の伝統と、九大生理学教授になられる前、3年間に渡って留学されたヨーロッパ、ことにイギリスのパブリックスクールの教育を踏まえられていたことと思われる。ある卒業生は初期の校友会誌「ふよう」の中にこう書いている。「当時、高校では珍しい生理学の時間があって週に1時間校長先生のお話を聞くことができた。先生はある時、極東軍事裁判の結果何人もの日本のA級戦犯が処刑されたことに触れ、『たとえ戦勝国といえども戦敗国の指導者を死刑にすることは正しいと言えるだろうか。』と言われ涙された。その時は解らなかったが、卒業したあと先生が刑死されたA級戦犯、板垣征四郎陸軍大将のお兄さんであることを知り、先生の涙の意味がようやく解った。」と。敬虔なキリスト者であり、生理学者であった先生の一面を伝えるエピソードと言えよう。



●第4代校長原巳冬先生

 板垣先生は兵舎跡の草創期に9年間校長をされ、附設の礎と行方を確立された。第4代原巳冬校長は昭和40年より13年間在任された。石橋正二郎理事長より正源寺山の広大な現校地を寄付され、新校舎の建築、グラウンドの整備をされた。昭和44年よりは中高6ヶ年教育を開始され、中学1回生1クラスを含む高校23回生は昭和50年に東大合格30名を成し遂げた。この飛躍発展の時期の校長であった。

 先生は熱烈なキリスト者で東京高師時代、宣教師より多摩川で洗礼を受けられたが、ダーヴインの進化論と信仰のはざまに苦悩され、生物学徒としてダーヴィンを選び取られたのであった。しかし、求道の思い止み難く永平寺に籠って道元禅師を学ばれ、生涯変わることがなかった。

 福岡県教育委員、県公立高校校長会長など歴任されて附設に就任された先生は、早暁に起きられると必ず座禅を組まれた。そして体のお弱い奥様のために朝食を作られ、電車に乗って春日から附設まで通われたのであった。

 始業式や終業式では、貧しさに耐え、病気に打ち勝って進学していった卒業生のことを話される時、きまって息を詰まらされた。全校生徒はしんとしてそのお話に聞き入った。また、日曜日に学校に勉強に来た生徒たちは、トイレの掃除を黙々とされている校長先生の姿を見いだしたのだった。



●魂のルネッサンスを

 附設には優秀な生徒たちが集まって来ていると言われる。しかし、あまりに自己中心的ではないか。「国家社会に、ひいては世界に貢献できる気概ある人物」が本当に育つであろうか。聖書には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とある。附設50周年を前に、今こそわれわれは板垣政彦、原巳冬両先生の精神に立ち戻るべき時ではないか。


担任シリーズ〜第18回〜[最終回]
大津留先生の出番
  平成8年を送る
大津留 敬


 今年も後わずかを残すのみとなった。今年は思いがけないことが次々と起こって私にとって誠に忘れ難い年となった。



 「これは僕の金閣ではない」

 43回生の結城隆志君は本校のバスケット部にいたので東大文三に現役で合格すると附設の仲間を誘って駒場のバスケットのサークルに入って汗を流していた。この2月、大学1年の学年末試験が終わり、サークルの仲間と信州、志賀高原にスキーに行く。そのスキーも終わり宴会となる。試験疲れやスキー疲れも加わっていたのであろう、彼はたちまちに酔って気分が悪くなる。心配した友人たちが室まで送り彼は早々に休むことになる。ところが友人たちが夜半帰ってくると彼の様子がおかしい。そこで救急の処置を依頼するが、彼は自らの嘔吐物による窒息の状態ですでに手遅れであることがわかる。このように思いがけなく、まことにあっけなく彼は20歳の命を閉じたのであった。

 彼は中1の時、三島由紀夫の『金閣寺』を読んで強い印象を受けた。中3の時の京都研修旅行の目的はただ一つ、「周りの世界から明らかに超越して美しさを誇る金閣寺」を見ることであった。それは中1の時以来彼の心に抱き続けてきた金閣寺に対するイメージであった。作品の主人公、若い学僧を魅了する金閣のイメージを彼はそのように読みとって京都に行く。ところが現実の金閣寺は周りの松のみどりと鏡湖池に調和し、自然と一体化した美しい金閣であった。そこで「これは僕の金閣ではない」と彼はつぶやきながら帰ってくる。

 彼はジャーナリズムの世界で働きたいと言っていたので、行く行くは何か物書きになってくれるのではないかと期待していたのだが、実に惜しい20歳の命であった。



 「これは僕ではない」

 結城くんが亡くなって半年のあと、同じ43回性の船越新介君が亡くなった。船越公太、伸介の両君は双子の兄弟で、二人三脚ではなく一心同体のように附設の中高6年間を仲良く通ってきた。中3の時、彼らは曾祖父の弟、日系アメリカ人一世で波瀾万丈102歳の生涯を閉じた『船越ジョン良介之生涯』を取り上げる。アメリカまで取材に行き聞き書きをし、資料を多く集め、冬休みまでかかって完成したので、長さの点からも期日の点からも外部のコンクールには出されなかった。しかし、校内審査でみごと学長賞を獲得した。これは今読み直してみても中学生の水準をはるかに超えた作品と言える。

 彼ら兄弟はレポートの場合もそうだが、二人が交代してワープロを打つのだが、文脈は一人の人物が書いたようにつながっていた。

 その船越兄弟がそろって九大医学部へ現役合格し、二人はまた元気に何かしでかすだろうと思っていたら、新介君が病気という。世界の難病に挑戦してくれる二人と思っていたのに新介君は急性白血病によって貴い20歳の命を奪われてしまった。

 葬儀のあと新介君が病床で書いたという自画像のはがきが送られて来た。眼鏡をかけた丸坊主の彼の自画像にはフランス語で「これは僕ではない」と書かれていた。自分ではない自分を見つめながら死んで行かねばならなかった若い命。この悔しさを贖うものは誰か。僕はそう思わずにはおれなかった。

 二人の葬儀には多くの附設の友人たちが参列してくれた。棺を見送るお身内にはご両親がおり、兄弟がおり、孫を愛したお年寄りがおられた。



 今、音楽室にあるグランドピアノは十余年前北海道大学医学部に入学し、アイスホッケー部の最初の合宿で事故死した故緒方裕君のご遺族から寄贈されたピアノである。卒業生名簿をあけると何年かに一度は必ず病気や事故で若くして亡くなった先輩たちがいる。

 現在校3の諸君は大学入試直前の時期で緊張の毎日を送っているが、命あふれる青春には生と死が表裏のように含まれていること、そして君らの中に流れている我が民族の血の中には老いて死んでいた者、若くして死んだ者たちの希い、民族の願いを継承する個を越えた責任が含まれていることを覚えていてほしいと思っている。


(原文は縦書き)
  「歌会始」物語
大津留 敬


象牙いろの雲かがやきて明けゆくやうたがはず今日も田にはたらかむ
                     山口県 藤富 恒子

 私が短歌を作り出したのは戦後まもなく病気となり療養生活をしていた頃である。その頃「雲」と題する歌合始があり、この入選歌を見て私は感動した。作者は農家の主婦であるに違いない。朝雲の輝きを「象牙いろの雲かがやきて」と表現する作者の心の豊かさ、下句「うたがはず今日も田にはたらかむ」には農業生活者としての作者の思想、哲学までが感じられる。短歌は、五、七、五、七、七の三十一文字の古い古い定型詩で、すでに現代の叙情など表現できないのではないかと思っていた私は、この一首に出会って短歌とはすごい物だと驚歎した。同時にまた、多くの歌の中からこのような歌を選び出す選者の眼力もすごいものだと思った。



 立哨の夫が浴みたる月光(つきかげ)を祖国はるけき島にいま浴む
                     三重県 三輪タマオ

 昭和五十八年のお題は「島」であった。視聴覚室で生徒たちと一緒に「歌会始」のテレビを見ていて私は思わず胸が詰まり、涙が溢れてきた。この歌の作者は戦後三十余年経って、初めて夫が戦死した島、南方はるか太平洋に浮かぶ島を訪れたのであろう。その夜は空が晴れ、夜が更けるに従って月の光がこうこうと作者を照らしている。おそらく結婚後まもなく出征した若き夫は、歩哨としてこのような月の光を浴びながら任務を遂行していて戦死したのであろう。戦後、残された子供たちを育てるのに精一杯であった作者が、子を育て、働き続けてきた結果m南の島を訪れるまでの時間的、経済的、精神的余裕が出来たのであろう。夫の死後の、多くの具体的悲しみをすべて捨象し、淡々とこのように表現しているからこそ、普遍的に人々の心を打つ作品となった。うらみつらみ、感情をストレートに表現したものであったなら、これほどまでに感銘を与える作品とはならなかったであろう。

 この年詠進された歌の数は二万七千首、入選は十首、入選に次ぐ佳作は十三首であったが、佳作の中に私の次の作品が入った。

 つらなりて鶴かへりゆく空の果て霞みて天草の島々浮かぶ



 接木して祖父の作りし苗床の山の椿が花を付けたり
              附設高二年 菅 大介


 耶馬渓の空へそびえる岩山に路穿つ僧の姿がうつる
              附設中三年 松本 貴裕


 平成八年の尾題は「苗」であった。高二の諸君に作ってもらった中から菅大介を初め数人の作品を詠進した。今年は中三の諸君だけ出すことにした。四十五回生は高三であったので歌を作る余裕もなかった。中三の松本貴裕は卒論で「青の洞門」を取りあげ、実地に見て来たという。それゆえ実感がこもって仲々良かったので、十二月に入ると彼の作品が佳作にでも入らないものかと思っていると、なんと私の作品が預選歌となったのとの速達が宮内庁から届いた。



 あかときのひかりのなかに髪を梳(す)く白寿の母の姿しづけし
                   福岡県 大津留 敬


 平成九年一月十四日、皇居正殿、「松の間」での厳粛な「歌会始」が無事に終わると私たちは「連翠の間」に案内された。二十分ほどして天皇、皇后がおいでになり、一人一人の預選者に言葉をかけられた。あまりの緊張に細かいことは良く覚えていないが、私のうたについてご説明したあと私は天皇にこう申し上げた。「私は陛下と同じ昭和八年生まれです。戦時中は東京の番町小学校へ通っておりましたので、当時皇太子でいらっしゃった陛下が月に一度、皇居のご両陛下をお訪ねになるため、東宮御所からアズキ色のロールスロイスに乗られて我が家の前をお通りになるのを玄関の中からお見送りしたことがあります。」陛下は大変親しそうに「あっ、そう」と仰言った。美智子皇后は「お母様はどなたか歌の先生につかれましたか」と聞かれたので「いえ、母は徳山にあった与謝野鉄幹のお兄さんが校長をしている女学校に参りましたので短歌を教えられましたが、ひとりで日記にうたを記すだけで特に先生には師事しませんでした。しかし、私は佐藤佐太郎に師事しました。」天皇と皇后は一瞬顔を見合わせにっこりとされた。皇后さまは「私は五島美代子さんのあと、佐藤先生にお習いしました。」と仰言り、「お母様は今のお元気ですか。」と聞かれた。私は「母は平成五年、九十九歳で亡くなりました。」とお答えした。皇后さまは最後に、「このたびは本当におめでとう。」といわれ、私は「ありがとうございます」と申し上げた。

 このあと「泉の間」に移り、預選者は天皇陛下からの賜物として飛騨高山の春慶塗の短冊箱をいただいた。終わって宮殿を出て、宮内庁舎の前へ行き、記念撮影があり、その後庁舎の1階会議室で二、三十人の記者団との記者会見があった。そのあと二階の食堂で昼食が出、そのあと選者との懇談会があった。主なやりとりのメモを紹介する。 今年のお題「姿」はテーマが難しくはじめは一万九千首の中から預選十首が残るか不安であったが、結果としてそれぞれに個性的な良い作品が残った。

 一人の選者がどんなに強調しても他の四人の選者が同意しなくては預選歌の十首にはならず、佳作にしかならない。

 あなたのうたは「あかときの」の古語が生きている。この歌は現在形で詠まれているがお母さんは健在なのか。健在でなかったら過去形で詠むべきではないか。

 大津留さん、全国的に高校では短歌の教材はほとんど飛ばして教えないという話だが、ぜひ若い人たちに短歌の良さを教えてやって欲しい。

 朝九時に皇居に入った私たちは午後四時少し前に宮内庁のマイクロバスに乗って坂下門より退出した。するとホッとした預選者たちは一斉に本音が口をついて出た。「やあ、皇后さまはおやさしい方でしたね。」「人から『風邪を引くな』といわれてこの一ヶ月はわが身がわが身でありませんでしたね。」


担任シリーズ〜第12回〜
大津留先生の出番
  ソウル・ベルリン1995
大津留 敬

(1)ソウルにて(7月26日〜28日)

 終戦50年にあたる作夏、渡しはソウルを訪れた。それは、その夏韓国政府によって取り壊されることになっていた球朝鮮総督府の建物を見ておくためであった。

 ソウルは今から500年前、李王朝の首府、漢城としてこの地に開かれる。漢城の北の中心に李王朝の王宮、景福宮がある。漢城をわが国の古都、京都とすると、景福宮はさしずめ京都御所であろう。この景福宮は16世紀末に日本から攻めてきた豊臣秀吉の軍によってひとたびは焼き滅ぼされる。19世紀後半になって、大院君によってこの王宮の再興がなされているのである。ところが、まもなく日韓併合がおこなわれ、日本はこの王宮のど真ん中に植民地統治の象徴として朝鮮総督府の建物を建てることになる。

 マッカーサーですら京都御所や皇居の中に総司令部の建物を建てなかった。しかし、当時の日本政府は北岳と南山の間のこの国伝統の風水思想によって建てられた王宮の建物群の「気」を断つように、またこの民族の独立の願いを否定するように総大理石、四階建ての総督府を建てたのである。

 このことは実際にこの地に来て現場を見ないことにはわからない。1926年当時、韓国の人々は自分たちの王宮の建物や門が崩されようとしても反対はできなかった。それは反逆罪に当たるから。そこで当時の日本を代表する芸術家でもあり哲学者であった柳宗悦が韓国の人々に代わって書いたのが、現代文の教科書に出てくる「光化門」である。この一文で光化門は辛くも現代にその姿を残したのである。

 ドイツ人に設計された総督府の西洋風の建物は確かに威圧的な重厚な建物であるが、今では国立中央博物館となっていた。中を見終えて私は庭園に出、広々とした芝生の中のベンチに座った。

 案内をして下さったのは朴昌源先生である。先生は長年小学校の校長先生をされていた70代の温厚な紳士で、久留米大学に医学研修に来られていた朴仁秀博士のお父さんである。私は思わず先生の達者な日本語をほめたところ、先生は次のような話をして下さった。

 日韓併合以来、こちらの学校では日本語しか使うことができなかった。ある時、授業中に友人が急に腹が痛くなり、先生の前に出て行ったが、日本語が出て来ない。たまりかねた友人たちが彼は便所に行きたいのだとハングルで言ったところ、日本人教師からさんざんに殴られたという。そのようにして身につけられた日本語であったのだ。

 若き教師時代は朝鮮動乱で釜山あたりまで戦乱を避けて逃げ、生徒たちと青空のもとで授業をしたという。そのときの生徒たちが現代の韓国の政・財界の若手として何人も活躍しているということだった。

 最後に従軍慰安婦のことが話題となった。彼女たちで今なお韓国で生き残っている者はせいぜい数十人である。日本政府が一人に一億円のお金を出しても、今の日本の経済状態では何ともないのではないか。それなのに日本の政府はお金を出さないという。民間の寄付で払えと言う。私たちは日本人の心が分からない。韓国の大統領は「従軍慰安婦の問題は心の問題ではない。こころの問題だ。」と言った。しかし、日本からの「こころの慰め」は今なおされていない。

 少し離れて光化門を望む庭園にはすっかり夕づいた光がさし、吹く風は快かったのだが、私は韓国の人々のこころを思い、日本人のこころを思って何か重い宿題を負わされたような気持ちとなって景福宮を後にした。

(2)ベルリンにて(7月28日〜31日)

 (a)森鴎外記念館

  教科書では今まで何度も鴎外の「舞姫」を取り上げてきたが、その舞台となるベルリンに来たのは初めてであった。小説の中にでてくるウンテル デン リンデンの通りを歩き、主人公太田富太郎とエリスが出会うマアエン教会にも来てみた。しかし、作品で読むベルリンの町の奥深い重厚な感じがあとひとつ感じられない。 

 そこでフンボルト大学の鴎外記念館を訪ねてきた。記念館の館長はドイツ婦人で鴎外の研究家ベアーテ。ウェーバさんであった。日本語が大変上手なのは早稲田の演劇家に留学していたからという。

 Q:物語の中のウンテル デン リンデン(菩提樹通り)は枝さし交わしと書いてあるのにまちの菩提樹が小さいのはなぜか。

 A:第二次世界大戦の戦火はベルリンも深刻で多くの家・建物が破壊され尽くした。鴎外の4年間の下宿でそのまま残っているのはここだけである。戦後の貧困と寒さで人々は街路樹や公園の木を切ってストーブの薪とした。現在のリンデンバウムは戦後東ヨーロッパから送られてきたものである。

 Q:では、マリエン教会を始め多くの建物は元のままでないと思ってよいか。

 A:町も建物も通りも戦前と戦後では大きく違っている。東ドイツ時代は宗教は保護されなかったので教会などの復旧は遅れていると思ってよい。

 (b)ヴィッテンベルグ

  附設中学1期生の徳安彰君が法政大学の助教授として家族ともどもドイツに留学中である。1日案内してくれるというので私の無勝手流のドイツ語では心もとないのでベルリンから急行列車で1時間半のところにあるルター シュタット ヴィッテンベルグを案内してもらうことにした。

 駅も町も大変ひなびたところにあるが、ルターが宗教改革の95ヶ条の抗議文を張り出した城内教会の扉を見、ルターが牧師として説教をしていた聖マリア教会を見た。またルターハウスの中に入るとラテン語からドイツ語にルターが初めて訳した手書きの新・旧約聖書があり、分厚い聖書や彼の論文が木造のルターハウスの各階にきれいに展示されているのを見ることができた。

 新約聖書は2週間で訳し終えたというが、その訳が近代といつ五の基礎を築いたという。

(3)南ドイツ チュービンゲン(7月31日〜8月3日、8月8日、9日)

 チュービンゲンはハイデルベルグと並ぶドイツの大学町である。南ドイツ、シュバルツバルトの近くにある。

 ここはには「ハイデッガーのニイチェ解釈」でチュービンゲン大学より哲学博士号を与えられえた甥が20年あまりもすんでいる。今回はスイスの山歩きをする前と後にここに滞在した。

 彼がはじめにすんでいたエヴァンゲリッシュ シュテイフト チュービンゲンという学生寮は、大学の創立以来の古い寮で回廊には有名な卒業生たちのレリーフが飾ってあった。ヘーゲルやシェリングや詩人のヘルダーリン等々であった。今は結婚して郊外の丘の麓の家に住んでいる。以前は夏休みにくるとほとんどの学生は家に帰ったり、旅行に出かけていて大学は閑散としていたが、今度はかなりたくさんの学生が街や大学に溢れていた。最近はドイツも学生の数が増えて夏期の講座を受けるものが多くなったとのことである。

 ここではヘルマン・ヘッセが神学校を抜け出して勤めた本屋の後を訪ねたり、ヘルダーリンが晩年幽閉されたヘルダーリンの塔を見たり、医師、哲学者、政治家として活躍したウーラントに関連するところを訪ねた。

 大学の裏山の近くに墓地があり、自然の花が咲き乱れていろいろな形の墓石にいろどりをそえていた。ヘルダーリンやウーラントの墓は質素であったが、彫刻を施した美しい墓もあり説明の立て札もあって東京の雑司ヶ丘墓地のようであった。

 帰りがけ大学の生協で、スイスの宿や列車の切符など注文して買うことができた。ベルリンでは日中30度を越えて暑かったがチュービンゲンは夜、窓を開けていては寒いくらいであった。

 芝生の庭には白樺が生え、リンゴや名も知らぬ木々が実をつけており、手作りのジャムをごちそうになってきた。


[先生たちの山]
〜大津留先生編〜

 附設の先生にも山が好きな人がいっぱいいる。というわけで、今回はヨーロッパの海外研修で、スイスのアルプスに登った国語科大津留先生の登山記です。

 1995年夏期海外研修報告書より
  スイス・グリンデルワルド 1995年8月4日〜7日(4泊)
 8月4日チュービンゲンを発って、インターシティを乗り継ぎ、チューリッヒ、ベルン経由でグリンデルワルドにやってきた。第一の目的は4000メートルのアルプスを眺めながら山歩き(トレッキング)をする事である。
 1日目はリフトゴンドラフィルスト(2000m)まで登りそこから山道を1時間歩いてバッハゼー(バッハ湖)に着く。ここから引き返そうと思ったが、少年と母親も老婦人も雪渓を越えて山をどんどん登っていく。そこで私も登ることにした。湖がすでに2300mのところにあり、湖の水面にはグリンデルワルドの谷をへだだてそそりたつシュレックホルンの雪嶺が逆さ影を写している。雪渓のとぎれたところには高山植物のキンポウゲやグロッケンブルーメ、シルバーディステルなどの花が咲いている。エーデルワイスだけは今回は見つけることができなかった。何度も立ち止まっては写真に撮り、息が切れては休むので何人もの人に追い抜かれる。そしてついにファウルホルンにまで登ることができた。実に2600mである。バッハゼーからひと山越えて屋根伝いに来たので南の眺望が一気にひらけ、断崖の下2000mのところにブリエンツ湖がロートホルンの山脈にはさまれて細長く見えた。足がふるえるように高い絶壁の上の尾根道をつたい、谷を下り2時間歩きに歩いてブスアルプについた。
 途中カウベルを首に付けた放牧の牛がたくさんにてその間を通って下って来た。その間景色が開けると改正の空のもとヴェッターホルン、シュレックホルン、フィッシャーホルン、アイガーの北壁など4000m級のアルプスが氷河を輝かせてそそり立っていた。歩きに歩いてブスアルプに着きレストランで皿一杯のポテトのフライ、ソーセージのドイツ風昼食を食べ、グリンデンワルドまでバスで降りて歩いた。
 2日目はインターラーケンまで列車で下りブリエンツ湖を船で渡って、ブリエンツの町に上がり登山電車でロートホルン(2600m)まで登ってきた。
 3日目はラウターブルンネンの谷に行き、落差300mのシュウタウプバッハの滝を見ながら1時間以上歩いてギンメルワルトのロープウェイの駅に行き、ミューレンの町に上った。
 今晩はここに一泊するのでホテルブルーメンタルに荷物を預け、再びスイスバスを使ってラウターブルンネンの谷に下り、ユングフラウやメンヒの氷河の溶けた水が谷の間の滝となって1秒間に20トンの量でとどろき落ちるトゥリュンメルバッハの滝を見てきた。岩の中をエレベーターで上り、トンネルを上って滝のしぶきを浴びながら見るのであった。いつも高良山に登るとき持参する薄手のカッパを出してきたので助かった。
 ミューレンの町は1500mの断崖の上にあり、自動車も通らない小さな集落だが、ホテルの窓からはラウターブルンネンの谷をへだててユングフラウが眼前に迫って見えるところであった。
 スイスの4日間の計画はことごとくうまくいった。グリンデルワルドワルドは今度で3回目になる。今までにユングフラウには2度登ったし、アイガー・メンヒ・ユングフラウを眺めながらメンリッヘンからクライネシャイデックまでの山歩きもした。
 そこで今回は今まで行かなかったところで、是非歩きたいと思うコースを選び、計画を立てた。それがすべて成就し1日最高5時間のトレッキングもでき、年齢と体力の限界に挑戦することができた。

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47回生 笹尾 卓宏, 49回生 脇元 隆次 / webmaster@fusetsu.club.or.jp