徳永先生(47回生の数学についての作文)

97/04/23 更新



HTML版制作者より

 本文は一段落が一人分です。適当に抜粋してあるため、意味不明な個所もありますが、 あまり気にせず読むのがいいと思います。
 また、筆者氏名を伏せているため、分類のしようがなく、やたらと長いファイルに なってしまいました。暇なときに読んでくれるとHTML版制作者としてうれしい限りです。
 最後に、徳永先生に、公開が遅れてしまったことをお詫び申し上げます。
1997/04/23 笹尾 卓宏

本文

 数学の起源、それはメネラウス、アルキメデスに代表される古代ギリシャ人の暇つぶしであり、遊びのようなものだったそうだ。そう、数学の起源は遊びだったのである。その数学が今、現在の学問の代表的存在になっているという事は、すなわち暗に我々に遊べということを示唆しているのかもしれない。

 私の姉が受験のため予備校を休むので代返を頼まれた。医歯系数学だったので興味もあった。1時間目はテスト。数列。積分。組み合わせ。習ってない部分が多く、解くことはできない。2時間目のテスト解説もちんぷんかんぷん。1問しか合ってなかった。3時間目は配られているテキストの説明。習ってないことばかりだが、教師の説明が面白かった。

  数学:数量や空間の性質などを研究する学問(旺文社国語辞典第8版)
私の数学嫌いは数学それ自体にはないような気がする。別に「数量や空間の性質などを研究する」事がいじめにつながったり消費税を5%にあげたりはしない。
 論理のかけらもない私には数学的思考というものが幾分苦手だったりするわけだ。だから数学が嫌いだ。なんて結論を許してくれるのだろうか。

 文字というものの存在がなくなればどうなるのか。数字で表すことのできないものはどうなるのか。自分の中では、文字とかルートのような記号というものは、革命を起こすようなものである。目に見える、わかる範囲にしかなかった視野が、広げられることになったのである。未知数という目には確認することのできないものが、文字というものによって表現されたのである。それは、自分の中では、衝撃的な対面であったが、それこそ、数学の良き点であり面白い点だと思う。

 夏の課題考査。このとき、私は数乙で見事0点を取り、さすがにこれではいかんと感じ、授業にその後3回ほど、この上ないほど?本気で取り組んだ。すると、まるでマジックにでもかかったかのように、平面の世界が非常に身近に感じることができるようになった。続いて、複素数平面。これはベクトルに加え、三角関数の考えも入った非常に面白い項目だと思っている。

 算数をなぜやったかという疑問がある。足し算、引き算、かけ算、わり算、分数などはいいとして、鶴亀算、植木算などというものは何のために勉強したのか?中学で方程式を習った時点で不要となるのだ。なぜか僕にはわからない。

 現代の数学の教育は解き方や考え方をいきなり教えているような気がする。河合雅雄氏が言うように教育論ではなくて教育技術論やその開発への思考が強すぎると思う。そのせいなのか授業であまり問題を解く機会もないし、ひらめきを要する問題もほとんどない。高校にはいってよく感じることだが、公式を覚えてもそれを活用できないまま次の単元へはいっている。原因として大学入試等があるかもしれないが、もっと色々な問題を扱ってほしい。

 数学嫌いは、一部では受験数学の暗記詰め込み式の勉強だからといわれますが、果たしてそうでしょうか。数学の問題が示されたとき、それが難解であればあるほど、何か背筋にぞくっとくる興奮がありませんか。そして解けたときには爽快感があります。また、自分のものよりもっと研ぎ澄まされた解答を知ったときに、うれしさとともに嫉妬のような闘争心が現れませんか。そう、数学は楽しくあるべき学問なのです。

 虚数などの存在不可能な矛盾せる観念は論理から必然的に導かれるものであろう。理性を究極的に押し進め、二律背反の葛藤が極限にまで貫かれたその先には、こうした超論理の「存在」の暗黒が口を開けているのである。そして、その「存在」を如何に扱うかということが、まさに現代哲学に課せられた最大の課題に他ならない。では、数学ではそれをどう扱っているか。複素数平面に見られるように、この上なく明晰に扱っているのである。元来数学とは、意識の遙か彼方へと身をひいて、なにものかがもはやそうでしかあり得なくなった領域において構築された学問体系であるから、現代思想の飛躍へのヒントは案外とこうしたところにあるのかもしれない。

 私たちが数学を学習することの理由として、その技術的な面がよく言われる。しかし、数学は本来技術であり、かつ芸術でもあるのだから、その学習理由は技術的なことだけではないだろう。「こんな事が将来の実生活で役に立つのか」そうではないのだ。それは実用性にのみ目がいきすぎているが故のものであり、私たちはもう少し数学教育に対する意識を変革すべきではないのか。

 数学は自分にとって好きな教科である。わからないことがわかるようになる、難しい問題が解ける、そんなときとても嬉しくなる。こんな心情は自分にとって理科をやっているときにわき起こるものと同じなのである。しかし数学で理科と違うものが時々でてくる。それは自分の勉強不足のせいかもしれないが、まったく内容が分からなくなるというものである。こうなると数学は面白くなくなってしまうのである。

 数学。小学校6年から今の今、さらにこれからも苦しめ苦しめ苦しめ・・・・られた、たれる、られるであろう。数学の道に数々の障害を持つ少年をも含む授業において、センスがない、云々の連発はまだしも、生徒一人を不意に指名するあの進行はいったいなんなのであろうか。解く方向は見え辛く、教師と思考を共有する事などできないのだ。

 2月8日「フェルマーの定理」に関するTVを見た。感想は3つ。一つ目は、日本人が結構発見に関わっている。戦後間もない頃に大した予想を立てたものだ。二つ目は、数学は時代を超えるということ。何世紀も前にたてられた定理を数百年後に解析するというのは、今の世の中では考えにくい。三つ目は、定理を証明した学者は己の欲望のために解いていたという事実。フェルマーの定理は解けたところで別段我々の生活に何の影響も及ぼさない。しかしその学者は、涙を流して感激していた。まあ、7年かけて証明したことを否定はできないが、やはり数学の存在価値を考えてしまう。カタルシスだけで、個人レベルだけでいいのだろうか。

 中学には行ってからは、算数が数学になった。なんで呼び方が変わったのかは今でも不明だ。小学校の頃嫌いだった算数も中学校で数学に変わり、もっと嫌いになった。公式、定理、定義、なんやかんや・・・。覚えることばかりになってますますつまらなくなった。どこかの教師は、「数学の公式ってきれいでしょう。こんなになるのは楽しいんじゃないかと思いますけど。」なんてハゲたことをいう。きれいな公式がでたからといって何が楽しいのか僕にはさっぱり分からない。みんなで同じ事をして何が楽しいのだろう。答えにたどり着くまでのやり方が違うなんて屁理屈は僕には通じない。

 お年玉というのは数学的計算からいえば、その値は常に一定であるはずだが、そうはいかないのが現実である。まず経済社会の変動である。数年前のバブル崩壊で苦しくなったのは大人だけではない。そして、大人同士の信頼関係の変化である。反発し会う相手の家に年始回りにいく人間などいるはずもない。最後に、家庭内行事の影響。正月に旅行などすると、当然年始回りはできない。我が家では今年は兄が受験を控える身なので年始回りは元旦に限られてしまったのである。

 中学になると数学がだんだん嫌いになった。定期考査は平均点を大きく上回っているのに、実力テストになるとなぜか点数がでなくなっている。原因は計算ミスなのだが、こうも続くと何か不安になってくる。枝問に分かれている問題など(1)でミスするとその問題はすべて間違ってしまい、さらに数学は配点が高いので最悪である。

 T先生の授業を受けて、得した点がある。それは、大阪弁の世界を知ったことである。僕は先生が授業中連発される大阪弁が耳から離れず、いつも先生を見るとすぐに大阪というイメージがわいてくる。今では僕の日常会話に自然と大阪弁がでるほどにまで上達している。

 僕、数学、嫌い。いつのことだろう、人が数を認識するようになったのは。確かに我々が生活していく上で数を考えさせられることは非常に多い。足し算、引き算、かけ算、わり算、どれをとっても欠かすことのできない計算ばかりだ。しかしどうして対数計算や微分積分、複素数などが誕生してしまったのか。実生活で必要なものだけでいいではないか。どうしてそこまで足を踏み込むのか。

 僕が好きな数学は体系的、学問的な数学よりもむしろパズル的な数学なのである。ややこしい難問を、ちょっとした発想で鮮やかに解いたときの快感(周囲からの賞賛の声もそれを増幅させる)に僕は病みつきになっているのだ。だから、僕が苦労して、複雑な計算を経て解いた問題を、他の人が立った三行で解いているのを見るとやはり悔しいし、落ち込んでしまう。

 附設の、特に数学科の先生方は個性的でかつわけのわからん先生が多いような気がする。また、こんな先生がいるからこそ、附設が附設であるのではないかなあと思ったりする。

 数学は別に知ってても知らなくても生きる上ではどうって事ないのだと思う。算数は知ってなきゃいかんが。虚数とか、こんなの将来社会で使うかコノヤローと思ってしまう。誰かが数学は頭の体操だといっていたが、僕もそう思う。その程度のものなのだ。アルキメデスとかユークリッドとか、0の発見でどうのこうのなんて、後世の僕らにとっては、少なくとも僕にとっては、単なる頭をたいそうさせる鉄棒みたいなものなのだ。数学なんてどうでもいい。

 そもそも数学なんて昔の暇人がやっていたことだ。それがたまたま自然科学に役に立っただけである。今、数学が趣味というやつがいる。確かに問題を解いたときの喜びは大きい。しかし四六時中数学のことを考えようなどと、考えたこともない。彼らのやっている数学はすごい。どうやったら思いつくのか分からない。僕から見ると彼らはよほどの天才か暇人かのどちらかである。

 数学は実生活に役にたたんとか言う奴はバカだ。具体例はパッとでてこないが、自分という人間の中に数学によって培われた個性は十分あると思う。僕を取り巻く数学の環境はかなり高い。この環境において数学ができないのは、僕以外の誰に責任があるのでしょうか。僕は負けず嫌いではないけれども、あまりにも周囲の環境がよいので悔しい。

 僕は大学入試にでるような数学が果たして将来の自分にどれだけ必要になるのか、そこのところが疑問だ。ある程度まで必要であることは確かだ。しかし、あんな難しい問題が解けたからと言って、会社の重役になれるのか?夢が研究者や教師になるのだったらまだしも。考えることは大事なことだが、コンピュータを使って解いてもよいではないか。よほどのことがない限り、あんな複雑なことになったりしないではないか。

 僕は基本的に数学は好きなだ。それは、何かが適当に散らばっていると思っていたところに、ある法則、規律があり、それらを元にして複雑な法則がわかったりするからだ。しかし、それらは日常生活でよく体験する事柄が主である。(ツルカメ算、落下運動、商売にともなう計算)。最近の数学はそう簡単に想像できなくなってきた。三角関数でよくわからない式がでんとでてきて、θの範囲を求めよなどというのは、計算間違いをしそうで、かつ途中までは想像もできないのでいやだ。また、みんなが分かっているようなことを書かなかったらなぜ減点になるんだ。(例えばx2≧0など)
 
数学だけ人並み以上にできる人がいると、「あいつは頭がいい!」と言ったりする。私はここが数学の不思議なところだと思う。なぜ数学がほかの科目より一段上にあるのか。それは数学の意味不明さにあると思う。他の科目は現実と直結している部分が少なからずあるが、数学は完全に現実から遊離している部分がある。しかし意味不明なものを理解するものが昔から偉いとされてきた。古代は天体の運行、亀の甲羅のヒビ、記号や文字を理解するものが偉いと見なされ、村や都市の指導的立場にあった。それが現代でも、数学ができる=何かスゴイという構造につながっているのではないか。

 中学時代の僕は英単語を一つ覚えるよりも数学の公式を一つ覚える方が楽しかった。しかし、ある時期から数学にコンプレックスを抱いてしまった。それまでの数学は基本となる公式を覚え、それを応用すればほとんどの問題を解くことができた。しかし、それだけでは解けない問題がでてきた。解く方法が全く見えないのである。そしてお手上げ状態の僕の横で、頭のいいできる友人たちは補助線なり何なりをさっさと引いて簡単に解いてしまうのである。

 だいたい人間は金の勘定つまり小学校の算数くらいができれば何の問題もないわけである。これは数学に限ったことではなく、理科は少々の生物、地学を知っていればいいし、歴史も必要ない。学校では国語(現代文のみ)と英語と算数と現代社会と一般常識と少々の雑学を身につけていれば、後は趣味の範囲内で知識を増やしていけばいいのではと思う。

 数学は一つの趣味であると思う。はっきりいってこんなものは社会で役に立つものではない。釣り、山登りなど一般的な趣味と同じである。ただ理由は分からないが、学問の教科の一つとして混ざっており、人間が成長していく過程において強要されるものとなっているだけである。数学が学問の一つとしてなくても数学をやっていただろう人は、学校で趣味をやるようなものである。逆に、教科としてなかったらふれもしなかっただろう人は、短気な人が釣りをさせられるようなものである。

 紀元前390年頃、プラトンはヨーロッパ最古の大学といわれる学校を開いたというが、その学校の入り口に、幾何学を知らざるものはこの門を入るべからずと大書したといわれる。数学の素養の低いものは哲学を会得することが出来ないからであるそうだ。つまり当時では数学という学問は全ての学問に通じるものであり、数学の素養があるということは大変誇り高いことであった。実際ギリシャの学者で数学に通じていないものはいなかったはずである。以前、定期テストでピタゴラスの定理を証明せよと言う問題を出題した先生がいた。ただ定理を知っておくだけではなく、昔の数学者たちが苦労して証明したその過程を理解するのも重要だという彼の考えには賛成したい。しかしその重要性を試験に出題することによって生徒に認識させるという方法には疑問を感じる。

 現代は数学を基礎としている。科学の基礎は化学物理であり、これらの基本は数学やその考え方であると僕は思っている。それ故、数学は役に立たないなどと言う意見が信じられない。その論理的な見方、簡潔さに学ぶことも多いのではないだろうか。また、答えがあっていれば良いという考え方をする人は、数学が役に立たないと言う人に多いが、彼らは考えることを嫌がっているのであり、そんな奴らに他の事を考えることが出来るだろうか。役に立たないと言うのは単なる逃げの口実にすぎない。しかし、このような口実を与え、物事を役に立つ、たたないと言う観点でみさせるという現代の教育に対しては反発を覚える。

 俺はT先生の言う数学の美しさは結構よく分かる。自分で問題を解いたときとかモービラスな解答とか見ると、なんかこう、他では味わえない快感が頭のてっぺんからズンと来る。そう、他のことで味わうそれぞれ微妙に異なる快感とはさらに異なる、んー異なるというか質の違った快感がある。広中平祐氏の言う想像の喜びといったものだ。

 後30年もたつと、完全なコンピュータ社会になるだろう。今、発売されているコンピュータを見てもすばらしい数学的能力を持っているのに30年もたつとどうなるだろう。所詮コンピュータにかなうわけもない数学を学ぶよりも、今の頭の柔らかいうちにコンピュータを使いこなせるようになった方が、将来のためにはいいのではないか。

 R先生の授業には必ずと言っていいくらい結婚談義がでてきた。詳しい中身は省くが入学当時我々の前で公言した三年後には結婚するはどこへいったのやろ。K先生は前の年まで奥方がいらっしゃらず、ジャンプを縦に裂く、三角定規で・・・など素晴らしい授業をされていたようだが、我々の2年間は平穏な授業をしてくださった。I先生は、数学は暗記だ。直観で答えは分かる。などと言い、僕の数学に対する観念を見事ぶちこわしてくれた。N先生はたとえ最前列で堂々と内職しようともさわやかな(そこが怖い)笑顔で授業を進める。T先生は一目見たときなぜかふろふき大根が似合いそうだなーと思ってしまった方で、時々毛がちょろっとのびているのがチャーミングである。

 ややこしい問題よりは難しい問題の方が断然良い。今まで解いた算数数学の中で一番好きなものについて書きます。「サザエさんの家でおやつに飴を分けました。まずタラちゃんが全体の 分の1と 個、ワカメちゃんが残りの 分の1と 個、最後にカツオがその残りの 分の1と 個を取りました。すると3人とも同じ数になり、余りが 個でました。3人は何個ずつ取ったか、全体は何個か答えなさい。」算数とサザエさんの同居する怪しい問題。

 提出が一ヶ月近く延びた理由は、作文が嫌いであるということと、苦手な数学について書くということが大半を占める。僕は数学が別に嫌いというわけではないということを言いたい。苦手というだけである。まあ、数学よりは地理、歴史の方が好きである。なぜ理系に行ったかというと、まず国語があまり好きでないということがある。また理系の科目の中にはいやなものがないというのがあげられる。代数と幾何はどっちが好きかというと、絶対に幾何の方が好きである。しかし、このごろやっている所は代数と幾何という区別がなくなっているのでちょっと困っている。

 小学校から今まで教科に関する変化は英語だけである。各教科の中で内容が深くなっているだけである。大学を考えると選択の幅は広くなるが、それは規模によるものにすぎない。現代においては、金さえ払えばほとんどのことは教えてもらえる。そういう中で選択の幅を極端に狭くしている高校大学のシステムはどうにかしてほしい。僕に関していえば、数学は嫌いではないからいいのだが、将来おそらく役にたたんだろうと思われる人で、得意でないという人はかわいそうだ。彼が「こんなことしてどうにかなるんかな」と思うのは、よく分かる。

 小学校の頃は「算数」はまあ、得意であったと思う。でも家で勉強していたから出来たのではなく、塾でやらされていてそれに従っているうちに少しずつ力がついていったのだと思う。塾のスローガンは「一人で勉強できる子に」だったけれど。だから、経験からいって数学は問題をどれだけ解くかにあると思っている。確かに、きちんと問題を解きこなしたときの数学の成績はいい。でもそれが分かっていてもいつも問題を解くというのはなかなか実行できない。時々、小学校の時に習慣づけとけばなあとか思ってみたりもする。でも、自分がこれからどうするかなどということは自分で決めることだろう。

 はっきりいわせてもらえば、私は数学が嫌いだ。数学のテストがある度に、苦しい思いをしないといけない。時には「こんなもん知らんでも生きていける」とか「俺の将来にベクトルは必要ないぜ」とか思ったりする。文系志望の私の立場からすれば、数学の代わりに、専門分野の勉強をした方が有意義だと思う。でもこんなことを言ってもただの言い訳としか思われないだろうし、数学がなくなるわけでもない。

 小学生の頃、算数は考える教科だった。線分図や面図や自分の好きな方法でひたすら考える。そして最後に万国共通の答えにたどり着く。だんだん楽して速く解けるのはどんな方法かが分かってくる。そういう算数が楽しかった。そして解けたときの気分は最高だった。今、算数が数学になって、楽しさがなくなってきている。ひたすら量が多く、時間も限られた中で考えるということよりも覚えるということをしてしまっているからではないだろうか。考えることを放棄してしまっている気がする。

 個人的には数学は好きである。だからといって成績はいいわけではない。なぜ悪いかと聞かれれば第一に勉強不足が挙げられるが、第二に私は意外と完全主義者なのである。数学を始めるとき定義や定理を詰め込まれる。しかし私はコンピュータではないので、なぜその定理が成立するのかよく見極めないと頭に収まらない。よってただ押し込まれたり、理解できないような定理はあまり覚えられないのが現状である。次に盛りだくさんの問題を与える附設のシステムは私に会わない。問題を解いていて、ある箇所でつまづいたとする。よく考える。しかし分からない。すると私は「逃避」してしまうのである。問題が多ければ多いほど、逃避する確率は高くなる。だから私に適した勉強法は、「重要な問題を少な目に解く」ことである。

 私は数学が好きだ。しかし今、私たちが習っている数学は生きる上で何も必要としないので熱中することは出来ない。私が算数と出会ったのは、幼稚園のときに公文に通い始めたことが原因である。そのころは純粋に問題を解くことが好きだったと思う。小学校になると、前よりも難しく複雑な問題に取り組むことになる。だいたいこのころから算数を好きになり始めた。受験のための数学に取り組むようになっても楽しんで解くことが出来た。附設に通ったのも数学なくしてはあり得なかった。中学に入ってからは数学の難しさについていくことが出来ず、一時は嫌になっていたが、高校になってまた好きになってきた。

 高校に入って、毎週行われる数丙や甲乙含めてのノート提出は非常によいものだと思います。日頃勉強をしない人種でも、数学についてはちゃんとするようになります。数乙のテストについてはそんなに恥ずかしいような点数は取っていないと思いますが、数甲のように問題数が多くなるとちょっと・・・。テストの4分の1が白紙になるというような有様です。計算力を付けないととは考えているのですが、大学受験の頃にはどうなっているでしょうか。

 数学には必ず天才がいる。問題を読んだだけでその答えが分かるような天才がいる。一体どういう頭をしているのかとても不思議だ。論理的な考えをする左脳だけでなく、直感的なイメージがかなり優れている右脳も兼ね備え、向かうところ敵なしだ。そういう人たちは、どんな難しい問題も簡単に解けるので、どんどん面白くなっていくかもしれないが、そうでない人がほとんどで、問題が解けないことで数学を嫌いになることが多い。数学にはある程度の知識とあとそれをどのように利用するのかというイメージが大切なのだと思う。

 日常生活に関わる数学というのは、だいたい小学生程度の学力で処理できると思う。それならなぜ、数学者にならない、専門的知識を必要としないものがこの学問を学ぶのか。僕は僕なりに理由づけをして生きているが、他の人はどうだろうか。変わった意見があれば紹介してもらいたい。ナイフの使い方とか、漂流したときの生き残り方の科目といったものがあれば面白いかもしれない。

 数学、この言葉を聞くだけで頭が痛くなる。こいつは、何で毎日授業があるのだろうとよく思う。中学の頃はまだ数学は得意ではないけれど決して不得意ではなかった。今考えると幾何の方が好きなのかなあと思う。図形と条件が与えてあって面積や辺の長さや角度を求めるのは好きだ。しかし、今の複素数平面や微分なんかは考え方がさっぱり。方法を覚えようとしても根本的な考え方が分かっていないから覚えられない状態。最悪。原因は日頃の学習が不十分だということは、はっきりしているので、これからは怠けずに頑張りたい。

 問題を解く方法は記憶しても、実際にその問題が解いているものを完全に理解できていないのである。ここでその実例を挙げてみる。確率の問題でどういうときにPを使い、どの問題でCを使えばよいか正確には理解できていない。また、軌跡の問題でも、高度な問題になると、型に当てはめて解くことは出来るが、それがどのような図形を描くかというのが理解できていないときがある。これからは例題などの簡単な問題でも、それが意味していることを理解して解くようにしたい。

 私は確率が数学の中で最も嫌いで、11月のZ会模試も見事に0点だった。しかしこの日は出来た!!と確信した。が・・・。結果は0点。私は目を疑った。解答と照らし合わせると、な、なんと、3の階乗を6と書くべきものを、9と書いていたのだ。たったこれだけ、されどこれだけで私は33点も失ったのだ。ミスったじぶんも悪いが、部分点をくれてもいいんじゃないの。(スマン!採点ミスやないか?/徳永談)

 小学校の頃の算数は好きだった。それに得意でもあった。だからいろいろな問題を解いていたし、分からなかったらすぐ解答を見るのではなく、20−30分くらいは考えていた。その考えるのが結構楽しかったような気がする。どうすれば数学を面白いと感じることが出来るのだろうか。それともそんなことは無理で、無理にでも勉強しなくてはならないのだろうか。しかしそれは相当な苦痛だ。今はそういう状態なのだ。たまに気まぐれで少しやることはあっても、それが長続きしない。本当にどうすればよいのだろうか。

 勉強をあまりしていない−>問題を解けない−>いい思い出がない−>劣等感を抱く−>混乱する−>ますます解けなくなる・・・。というような悪循環を何回も繰り返し続け、さらなる深みをさまようようになってしまった。「この状況を打開するにはひたすら勉強するのみ。だだ、それだけだ」と思いつつも、なかなか実行できずにいるのは、私の弱さの現れであろうか。

 高等学校における数学教育は、大学入試の関係から、文系では数3、数Cを範囲に含めないことになっている。国語、社会は特に、また理科も概して、文理の差は全員履修の範囲を発展的に複雑化せしめたものであるのに対し、数学では、行列や曲線など異種ともいえる分野の導入が目立っている。一般教養の観点から見ても、文系に明らかな不利が生じていると思う。出来れば数学教育が均等に施されんことを私は希望する。

 数学は公式を覚え、それをつぎ込んで応用して論理を組み立て、一つの答えを発見する学問だと僕は思っている。中学の頃はただ単調に問題を解くだけのつまらない教科だと感じていた。確率などは、どうしても確率を掛け合わせるという作業がしっくりこなくて、いつも1億回やって、その答えが出るのかなどと哲学の入り口にはまりそうになったりもした。それでもだんだん、難問を解きあげる(滅多にないことであるが)充実感が僕にも感じられるようになってきた。皆が言うように複素平面を見て感動したりすることはないが、それは僕が文系ロマンチストだからだろう。

 勉強の中で僕が一番気になっていた教科、一番大事だと思っていた教科が算数だった。算数を毎日やらないと、毎日勉強してるという気にならず、充実感が得られなかった。それは数学になっても変わらなかった。しかし高校に入り、数学さえもしなくなっていった。数学だけがすべてじゃないとかいっていたが、やはりあの充実感が得られないと、生活としての充実感も得られないだと思った。

 中3の夏休みに行われたK塾の高1模試で好成績をとったときから急に数学が面白くなった。ひとつ上の学年のテストに自分の力が通用したということも嬉しかった。このころから数学の問題を解くのが楽しくなり、数学が得意科目になった。長いトンネルから抜け出て、急に視界が開けたような気分だった。

 最初にいうが僕は数学が嫌いだ。理由は簡単で、問題が解けないからだ。解けたときのおもしろさは一応知っている。しかし、解けないので面白くない。僕の数学嫌いは小学校の頃から始まっている。当時は算数というものだったが塾でテストをやれば最後まで残された。中学に入学したのをきっかけに数学ができるようになろうと頑張ってみた。しかし結果はいつも中の下というところだった。こんな僕は理系選択で医学部志望である。さあ、どうしよう。

 数学は暗記だというのは、案外当たっている。公式暗記は当たり前であるし、解答を丸暗記まではいかなくても例題くらいは覚えておかないと・・・ねえ。

 「子曰く学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち危うし」。第4回の数乙のテストは、授業で使用していない問題集から多く抜粋されていた。だから、解答を覚え万全を期していた私は覚えていた問題しか解けず、酷い目にあったのだ。学んでばかりで思っていなかったから、理解が罔し(はっきりしなくて)結果の悲惨さに心まで暗くなってしまった。三学期にはいって、なるべく解答を見ずに問題を解くようにした。地道で時間のかかることではあるが、以前より問題を解くのが楽しくなったような気がする。

 数学を嫌いな人が多い原因の一つは、小学校・中学校時代ですでに分からなくなっていて、高校の数学なんて、まったく意味不明だからだろう。算数くらいだったら、まじめにやればできないはずはない。小学校ですでに落ちこぼれているのは教師の責任である。もう一つの原因は、内容にある。高校の数学なんて社会で役に立つとは思わないし、やりたい人だけやってればいいと思う。せいぜい中2くらいまでの範囲を高校3年までにたっぷり時間を使って完璧にやる方がよい。

 本物の数学には背後に人間の営みのぬくもりや人間の積み上げてきた歴史の深みなどが感じられるものである。数学は本質的には面白い。奇抜な発想や、定理には興味を引かれるし、パズルなんかで自然と格闘するのも実に楽しいものである。ただそれが入試のための数学になると面白くなくなる。格闘する相手がひどく卑小な感じがするのだ。

 現在の数学教育は将来役に立たないとよく言われる。今やっている方程式などを使って生計を立てる人は数少ないであろう。しかし、数学には思考能力や論理を身につける役割がある。これは将来的にも役に立つだろうし場合によってはなくてはならないものとなるであろう。

 実用的な数学は嫌いではない。しかし、虚数、対数、虚数、関数のグラフといった類の数学には抵抗を感じる。だいたい数学という位なんだから1,2,3,・・・という数字を使うのが数学の名における限界でないかと思う。それなのに、a,b,c,・・・やα、β、γ、・・・などの文字を使うことは何事か。

 数学の問題を解くのは好きであった。問題にはキーポイントがあり、これに気づけば簡単に解けてしまう。しかし鈍感な私にはこのキーポイントがなかなか見つけだせない。また、数学の授業はひたすら問題を解いたり、先生が解説したりと堅苦しい感じがするのに対し、国語の授業は世間話や雑談を交えるなど和やかな感じがする。どちらが楽しいかは歴然としている。そのため私は数学が苦手になってきた。努力も必要なのだろうが、数学の持つ雰囲気によって私は圧倒されてしまった。

 今回のテストは前回までのテストに比べて出来が良かった。自分の性格を考慮に入れて考えるに、やはり勉強する内容に左右されるものと考える。今回は授業をまじめに聞いていたせいか、結構理解できたため、やる気がでたのだ。前回までは不真面目だったのだ。一度理解できなくなるとやる気がなくなってどんどん泥沼にはまってしまう。今回のことで気づいた。私もやる気を出せば(多分)できるのだ。次回からの私に乞うご期待。

 人間の常識を越えたI先生は「数学は暗記だ」と言った。一理あるが、それがすべてではないと思う。高校からはN先生に習っている。本当にこんな楽しい授業は附設にはいって初めてだ。多分、高3まで教えてもらうと思うが、喜ばしい限りだ。

 最近、数学と現代国語がすごく類似していることに気づいた。思考パターンがすごくよく似ている。論理世界の構造読解における分析と論証の課程が数学の世界と似ているのだ。特に西原ワールド(現代国語の論理世界のこと)は数学そのものだ。最近、漠然とした苦手な世界に数学的手法を用いるようになって、西原ワールドが分かり始めたような気がする。

 まず中学1年、最初の「正の数、負の数」あたりは予め予習していたこともあってか、かなりの高得点を得ることができたのだが、次第に点数が下降線をたどっていってしまった。得点が落ちていくと授業が面白くなくなってしまい、そうするとまた点が下がっていくという悪循環で手の打ちようがなかった。が、中3では先生との相性が良く、点数も上昇の兆しを見せた。

 僕は幾何は好きだが代数は嫌いである。数学は結局ゲームである。決められたルールの中で数字の姿を変形していく過程が数学である。つまり数学の根底にあるのは遊び心である。図形を前にしてぼんやり考えるのはある程度好きである。幾何にはパズルのようなゲーム性が感じられる。しかし代数となるとこのゲーム性がいまいち感じられない。新しいことがでてくると時々感心したりもするがどちらかというと幾何に比べてマニュアル通りに解いていくという感覚がある。つまり遊び心をくすぐられないのである。図形を代数にかえる複素数では現段階では僕にとってかなりやっかいな代物である。

 数学で円や球の問題の答えとして√やπをそのまま残す。これはとてもおかしいことだと思う。無理数を答えとしても、その値は役に立たないだろう。ちゃんと√やπの近似値を代入すべきである。πなどというのを使ってみても何も実感がわかない。数学ももっと実用的なことをするべきである。

 数学の特徴は答えが一つという点だろう。そしてそれが「両刃の剣」となるわけだ。つまり、答えが合えば「分かっている」。もし、1でも違えば「分かっていない」となる。特にセンターなどは答えのみを書く。人を評価しやすく、そして残酷な教科だ。逃げかもしれないが今やっている数学全てが将来役立つとは思わない。しかし、答えが一つだから解答とあっているときの嬉しさといったら……。

 数学がなぜ現在我々学生共の間でどちらかといえば嫌われる傾向にあるかというと、数学は我々が鍛えることを日頃怠っている抽象的思考を必要とするからだ。なぜ我々は日頃から抽象的な思考をしないかというと、我々の教育の場、学校では抽象的思考ではなくてどちらかといえば短絡的思考のもとで学んでいるからだ。この繰り返しで大学受験となると少々厳しい。比較的抽象的思考が求められる大学入試の問題において非常に我々は苦労する。

 文学といったもののなかった時代は数学によって人間発展は支えられてきた。文学の発展において、哲学=数学のパイプラインは崩壊し,文学が人間発展をねらうようになった。現在は文学が全く発展していないという。そして人の精神構造は発展しない。よって、今こそ数学が人間の発展を担うべきではなかろうか。そのために現在の教育の官僚的な制度をあらためるべきだと思う。

 
僕と数学の関係は、親密なものではなかったが、決して殺伐なものではなかった。好きでも嫌いでもない友人同士のよう、とでも言うべきだろうか。だから普段は別に何とも思わない。ただテストが悪いと気が狂いそうなほど、気になる。そういう関係なのだ。こういう微妙なバランスは、精神衛生上、あまりよくない。点数主義者的で、そしてそういうものの脆さが今、一番見えているから。不安はある。しかしそんな不安すら展開させうる大きな歓びがある以上、僕は片目になってわざとこの姿勢を保とう。

 どうして数学をするのかという問いに,或る友人は「使わないと頭が錆びるから」という答えをさらりと返した。頭の刺激には,論理的思考が本当に良いそうだ。頭が錆びるというのは、将来ボケるという事につながるのだ。それは恐い。大学の合否の何倍かは重大な問題ではないか。数学は痴呆を防ぐ!強引だと思われるかもしれないが、理由付けという物にはこの位の勢いがあってもいいのではないだろうか。「いつかボケない様に頭を鍛えるべく数学をやる」

 数学ほど困難かつ複雑なことも珍しい。こんなの解こうとする方が難しい。はじめは数学も純粋に謎の解明だったのだろうが今日では、何から何までつめこまれる。たまらんっすねえ。恐らく数学が嫌いな奴は「面倒」。好きな奴は「解けたときが快感」とでも言うだろう。「解けると快感」といわれると、どうもマゾヒスティックな感じがして気分が悪い。

 数学(算数でも同じだが)で公式覚えただけで問題を全て解ければ苦労がかなり減るわけであるが現実的にはほとんど有りえないのである。そこでやはりT教師も言うように数学は“練習”が必要だということをつくづく思わされるわけである。しかし、私自身“努力”や“暗記(するための労力)”ということがはっきり言って嫌いであるから、どうしても楽な方に行ってしまうのであるわけで、結局の所,数学は嫌いであるというのが結論である。しいて言うならば、数学が嫌いと言うよりは、学問自体好きにはなれないわけなのである。

 現在三月四日七時四十五分三十八秒電車の中。第五回定期テスト当日及びこの作文提出期限日で時間がないので、プレテストをやりながらこれを書く。一問目48番、いきなりわからん。やべし。しょうがないから解答みる。上の解答のやり方よくわからん。下の方の簡単なやり方でやってみる。一応解けた。わかったつもりになる。(2),うげー字が多くてごちゃごちゃしててわからん。あっさりあきらめて解答みる。意外と簡単。最後の問題を見る。α、β、γ、zとその共役複素数を用いて表せ。はぁ?問題の意味がよくわからん。しょうがないから答え見る。問題の意味を理解。解いてみる。でもやっぱりよくわからない。

 小学校の算数というやつは、結構簡単だった。しかし、お約束ではあるが僕の算数、数学に対する観念に大きな転機が訪れる。算数から数学に変わり難度が上がるのは分かっていたが予想以上だ。特にベクトルなど今数乙でやっている分野。数学に対しての念を思い改めなければならなかった。が、やはり怠け癖は抜けない。この腐った状態で僕は無意味なことをしている。すぐに高二となる。今しかこの現状から離脱し得ない。もう自己を奮起させ、後は耐えるしかないのである。数学頑張ろう。

 中学に入り、成績は落ちるだけ落ちた。自分が少々自信過剰であったのも原因だったが、考えることをしなかったことが一番の原因だったのだろう。しかも、高校にはいってからは、中学以上の論説をしなけりゃいけない。今現在はついていくのがやっとで、ちょっとでも難しくなると、みんなが遙か遠くへ行ってしまっているみたいになる。すなわち考えることを、未だしていないのだろう。後は意識改革しかない

 T先生は怒ったとき、たまにさめた口調で「おまえら勉強せーへんのなら、俺は知らへんでー。勝手にしいや。」と見放した態度をとる。あれはなかなか応える。諦められたと思うと怖くなる。でも、勉強はできない。

 この前授業中当てられたときもまったく分からずどぎまぎしてしまった。まあ、それもこれも予習復習をまったくしない自分が悪いということは分かっているのだが。そういう状態になると、授業はほんとに最悪である。そんなことを言いながらも自分の選んだ道は理系である。数学は教科の中でも一番好きである。問題を解くのは楽しいと思うし、自分の性格にも国語よりあっていると思う。

 国語、英語は特にこれという努力なしで人並み以上の点数が取得できるが、数学はそううまくは行かない。基本的に完全に理解しきったものの積み重ねが数学的思考を行う上でのベースとなる。中途半端な理解の仕方ではまず後で役に立たない。僕は中学の時のその蓄積が目に見えて少ない。三学期にはいってから、中学レベルのものからやり直しているが、高校二年一年間かけても間に合わないだろう。

 よく考えてみると数学は一瞬にして一都市を吹き飛ばし、人を殺せた。そして人間を宇宙にまで連れていった。いわば数学はすばらしい。これからも数学はドラエモンを造るだろうし、のび太君も造るかもしれない。そう今は歴史上の区分では、鉄の時代だという。しかし21世紀からは数の時代だと思う。数はいわば鉄である。車を造るとき、家を造るとき鉄が要ったように未来を造る時、数で造るだろうと思う。

 今から数学の嫌いな理由を書こうと思うけど。もちろん予想どおりテストっす。僕が馬鹿で点数も取れないから嫌なんだろうけど、何よりテストの制限時間が嫌だ。60分で10問なんて解けるか。1問1時間か2時間が妥当じゃないのか。たとえば高さ3,底辺4の三角形の面積を求めるってったってめんせきの公式を知っているから10秒で解ける。公式を知らなかったらどうするか。どう解くか知らないが、1,2時間くらいは簡単に過ぎるのではないか。(例が悪すぎたけど)

 小学校の頃担任をしていた先生は数学が苦手だったようで、小学校の教科書の問題が分からず、他の先生に聞いたりしていた。小学校の6年間はどの先生も数学については良くなかった。それに比べて、附設の先生方はとてもすばらしいと思う。

 数学は数学の定義のみで成り立っていると思う。これが意味することは、数学にはそれに対する視点がただ1つで事が足りる、ということだ。数学には必ず正解がある、この事を理解してもらいたい。確固たる正解があることが判明している以上、他の視点は必要ない。また、示されている数の形を変えるだけ、すべて創造するのに比べてずいぶん楽である。

 数学が得意であることの最大の利点は、誰も解けないような問題を解いたときの優越感である。難問を前にして試行錯誤し、ついに解答にたどり着いたときのうれしさは最高である。これがあるから数学はやめられない、という気分だ。こういうことは、英語や国語では感じることはできない。

 数学の勉強は嫌いではない。むしろ問題を解けるようになったら止まらないタイプだ。しかし、私は理解する前にすぐ答えを見てしまう。そのおかげで理解するのが遅くなり、時間がかかってしまう。また、計算もとても遅い。しかし、私は数学的思考を理解できるようになるまで成績が悪くても諦めないで勉強するつもりだ。因みに私は、ピタゴラスがミケランジェロくらい好きだ。

 僕が赤ちゃんの時、親が僕の将来を占うためだったと思うが、僕の目の前に、鉛筆やお金や辞書など並べたらしい。そしたら僕は真っ先に電卓をとったそうである。それが数学好きを意味するのか、機械好きを意味するのかは分からないが、どちらにしても数学に関係することだ。他にも小学校の時に、寝言で羊ではなくおはじきが一つおはじきが二つと数えていたこともあるそうである。

 小学校の勉強など、元来大して頭を使うものではないので、数学というものに対したとき、今まで慣れていない「考える」という作業にぶつかったのは大変な発見であったし当惑だったろうと思う。その結果、根性なしは逃避した。しかし、数学の点数が冗談ではすまされなくなってきた昨今、やっと根性なしも「考える」ことに正面からぶつかった。結果、点数も徐々に上がり、嫌いじゃなくなってきた。進路適性検査でも文理同レベルとでて、数学の才能が皆無でないことが分かり、意欲もでてきた。

 中二中三の頃、数学を好きになったのは「xの2次式の展開と因数分解」のせいだ。初めて見たときに感動した。それに、自分で因数分解したときは、自分を天才だと思った。が、高一になってからは本格的に勉強が嫌いになった。1,2年しか頑張っていない人間なりに、思うところを言うと、人間はものを好きになると恐ろしく強い。特に数学では、はっきりとそれが分かる。数学はある一定のレベルから一段上に上がるときは、何かがズッコーンと抜けるような音がする。

 思えば数の範囲も、信じられないくらいまでに拡がったものだ。小学校の時に1から100までの整数を習いだんだん桁が増えていって、兆の位まで行ってしまいました。さらに小数なんていう、整数と整数の間にある数を習ったと思うと、分数なんて言うのも登場して幼き私の頭はスポンジになりそうでした。中学校にはいると、小学校の教師は「3ひく7なんてのはないんだ」と言っていたのに、負の数というのが登場して、「えっくす」とか「わい」などの文字まで絡んできました。その後、平方根、はたまた複素数なんて訳の分からないものがでてきて、最近脳味噌のしわが増えては減っていくのを実感しているかのような今日この頃。

 数学は人を誘い込み知らぬ間に自分だけの世界に陥っていることがある。そこに大半の時間を費やす数学教師は図形や数学とばかり格闘しているであろう。格闘している間は自分を軸として考え続けており、図形や数字を対象物としか見ていないであろう。そうして、自分より下の生徒も同じく対象物としか見ていない。数学の問題ばかり考えていたら、やっぱり良くないのではないでしょうか。

 6年になって、中学は附設に行くことに決めた。塾も週4日になって、Mとまったく遊ばんごつなった。Mはミニバスケットボールクラブに入って、そっちんほうで新しか友人ばつくって、運動に力ば入れていったと。こん頃からたい。僕が勉強ば嫌いになったんは。親は「勉強しなさい」とは言わんかったばってん、6,7年も一緒に遊んどったMとの絆が勉強のせいでだんだんと薄れていくのが嫌だった。

 数学は苦手であるが、すごく嫌いというわけでもない。問題が解ければ楽しいし、授業を聞いても楽しいときは楽しい。しかし、それは分かればの話である。はっきり言って私は数学がほとんど「わからない」。だから数学の楽しさがわかるのは時々でしかない。私にとって数学とは、受験のために必要だからやる。それだけである。

 中1,2年のときのK先生。怖い。怖いので何も書かない。高校からのN先生の授業は時間が早くたつので好きだ。しかし、あの教え方はすごい。むちゃくちゃわかりやすい。T先生は、授業は面白いが、このつまらん宿題は許せん。私の数学に対する思いは、少なくとも好意的であると思う。数学の向上心はあるのだが、体がついていかない。授業で少しずつ難しい問題をしてくれることを望む。

 数学が嫌いだというのにも限度があり計算は好きだ。自分で気がついたらやっていたような簡単な計算、たとえば車のナンバープレートを左右で公約数などを出してまとまった数にしてみたり、91−19=72という引き算をして、その後で(9−1)9=72で計算が合うことを見つけてみたりしていた。こういうことをやっているのは数字自体は好きなのだろうと思う。

 困惑の時代と言われる現代。人々の間から一定のルールが消えかかりはじめて久しいが、ぼったくり、エセ宗教、勧誘手法、ねずみ講、マルチ商法・・・まあいろいろやってますが、その中で、実に正しい一定のルールを持ち、清く正しき明らかで、隣のアンちゃんでも恐れ入ってるのは、数学であります。πやらγやらなんやらかんやら忙しいといえど、それの導き出す答えは、あら不思議、同じ!!!!

 他教科と比べると数学は好きな方である。それは、数学が論理的な学問だからである。もちろん、論理的な学問は他にもある。しかし、その中でも数学は覚えることが少ない。僕は勉強するのが好きではないので、勉強をあまりしない。その結果、当然暗記するのが嫌である。数学は公式が多いように見えるが、簡単な公式から導くことができる。そして、論理をたどっていけば間違わないはずである。ただし、数学は好きだが、作文は嫌いで、このような作文は書きたくなかった。

 算数という教科には、どこか、クイズ的なものがあったのではないだろうか?そこで必要とされるものは一瞬の閃きであった。そこには何かその問題の表情と言うべきものがあったと思う。しかし数学は無表情だった。少なくとも私にはそう感じられた。世界を数字と記号で置き換え、公式に当てはめるようなことをまさに機械的に行うということはどこか不自然ではないだろうか?私はそこに何の興味も魅力も感じることはない。

 数列は覚えることなどあまりないのが好みである。ただ和の公式が少し苦手であるが、等比数列や2乗の項の公式を理解したときは感動した。微分も公式は非常に覚えやすい。4次や3次の方程式をすらすらと解けるのは快感だ。しかし私がわからないのは体積が面積となったり、面積が長さとなったりするやつである。三角比はもっとも嫌だ。覚える公式が多く、図形を描かねばならず、応用も難しい。数学において私の好きな単元は(1)覚える公式が少ない(2)代数の問題(3)応用が簡単。結論、私は怠け者だ。

 私が数学らしきものに出会ったのは、小学校6年生の時だ。突然講師の先生が、鶴亀算に替わるものとして、方程式を教えようと試みたのだ。私はもちろんわかるわけもなく「こいつ何を言ってるんだ?鶴亀算もワカランのに理解できるか!!」と半ば投げやりになって、与えられた例題を鶴亀算で解いたのだった。最近、当時のことを思い出しては、なぜあのとき講師の言うことを聞いて、算数から数学へのステップアップをやらなかったのかと後悔する。

 数学の登場は僕の脳天に衝撃を与えた。それは論理的に考え、式を書いて答案を作るという、僕がもっとも不得意な思考であった。しかも、僕は定理や公式を無視して天才的直感で解けるような問題が得意で、人に比べて灘中の問題が異常に得意であった。そして、中学の一回目の定期テストでは満足のいく点が取れなかった。というわけで、僕は数学に大して恨みをもっている。解いていて面白くない。算数で大学入試ができればよいと思う。

 代数と幾何とではどっちが好きか。私が知る限りでは幾何の方が人気がある。確かに幾何は一筋縄ではいかなく、創作的な感じがあるのでよいのだろうが、解くのに時間もかかるし、解けないときはストレスがたまってしまう。これは私だけかも知れないが、何か曲でも聴いているときには幾何がしたくなるが、逆に静かなときはあまりする気がおきない。ところが、代数は単調ではあるが、それが故にすぐに終わらせることができる上に、解けないものも幾何ほどは多くもない。さらに数学も所詮は慣れが重要なものだから、その点を考えても代数がいいような気もする。また慣れといえば、一年ほど珠算をしていたおかげで、今でもときどき数字がそろばんの玉に見える。そんなときには代数でもしたくなるものだ。

 数学がいまいちとっつきが悪いのはなぜだろうか。まず一つめは数であろう。負の数、ルート、虚数などのなかなか頭に浮かばないような数がぽこぽこでてくる。その二に公式の多さである。覚えてしまえば何てこともないが、つい忘れたり、全く覚えていないと、ジ・エンド。その三にギリシア文字の存在である。それは弾切れのバズーカのように見た目は非常に恐ろしくなんか難しそうな問題に見える。その四に拡張のしすぎである。昔の数学者たちはさらに上を目指し、どんどん数学を発展させていったが、数学を大学受験のために習う人にとっては「もうこのくらいでかんべんしてくれ。」とか「これ以上はやめときゃいいのに。」と思うのである。その五に数学自体の意味である。数学は何のためにやるのか、将来役にたつのかと思うことはよくあるだろう。

 私は昔から数学もしくは算数の問題などは、ほとんど直感で考えていたし、それで充分だという、いわゆる錯覚を持っていた。それはある時期まではそれなりに対処できたのだが、ある日、それだけではついて行けない、無理だと分かり、私の数学に対する甘い考えが崩れさってしまった。詳しいことは良く覚えてないが、行きづままった項目の一つとして、三角比があげられる。三角比というものは、いかにも論理的で、公式などを覚える記憶力が絶対条件である。人間の脳を考えた場合、脳を大ざっぱに、右半球と左半球にわけたとすれば、私は右半球(直感、想像など)を主に使い、左半球(言語、記憶、論理など)を使うときになってつまづいてしまったと考えられるのである。

 僕は数字が人間を支配しているように思われてならない。身近な例で言うと、僕たちが数が小さくなればなるほど喜ぶ成績順位。悪徳によるお金のやり取り。全て数字という名のつくものばかりである。だから、人間は数字から逃げることはできない。なおさら、受験という社会の規則なるものに従わねばならない我々は、楽しんで数字とふれあわねば損である。よく、先生たちは、「数学は毎日少なくとも一時間はしろ。」「数学はおもしろい。」と絶叫するが、その熱意もよく分かるこの頃です……?

 ある日、中学受験を間近にひかえた従弟に附設の算数の入試問題の過去問でわからないところがあるから教えて欲しい、とたのまれた。ああ、これはピタゴラスの定理を使えば斜辺の長さが出て、それからここの辺の長さをxとおいて・・・とやっていくとあっさりと答が求まった。求まることは求まるが、ピタゴラスの定理を小学校六年生の従弟が知っているはずがない。従弟に言って解答を見てみた。まず、解法の第一段落に必要なのは補助線だった。まず、この補助線を引くことに気がつかなければ先には進めなかった。そのあとを見てみると非常にややこしい。こんな風に算数と数学では全く違う解法で同じ答にたどりつくことができる。しかし、その過程で使用する力量にはかなりの差がある。こんな時は数学の方が算数より使えるんだな、と認識する事件だった。

 小学校の頃であるが、塾の先生が算数の出来る生徒に対してよくこう言っていた。「鋭いですねぇ。」生徒が妙な解法を示したとき、先生はこう言うのだ。小学校の頃だけでなく、今でも数学の教師は一風変わった解答には少なからず興味を引かれるようであるが、そのような解答は決まって、模範解答とは違うが、そんなものよりはるかに分かりやすいものであった。僕は数学の天才というのはあると思う。国語や英語に天才はないが、数学にはあると思うのだ。数学の天才は、数学の問題に対し、模範解答など無視してとにかく答への最短距離をたどる。それはとても凡人には無理で、他の人を感動させるものなのである。

 まずきっぱりと言うと、数学ができるということは、社会に出て直接役に立つということはまずない。ではなぜ数学をやるのか。ぼくらは何の役にも立たないものを学生時代に数百、いや数千時間もやっているのか。それも違う。一見、矛盾しているように思われるが、そうではない。数学は、直接ではなく、間接的に役に立っているのだ。つまり、数学を勉強するということによって、努力や、くやしさや、いろんなことを覚えていくのだ。そんなことはないと言う人がいると思うが、そういう奴は、必死に数学に取り組んだことがないはずだ。だらだらと教師にやらされているような、受身的なやり方では、それこそ本当に何の意味もない。数学は、ポジティブにやることによってのみ、真の目的が分かるものなのだ。

 ところで、必ず答えが出る、と言うことに関して数学に一つの不満がある、例えば定理Aがある。何故成立するかと問うと定理BとCからだという。ではそのBやCは……と辿ると定義だの公理だのに行き着くわけだが、それではユークリッドが『原論』を書いた瞬間に定理BやAは成立してしまうということになる。わざわざ証明してみせる「意味」がどこにあるのだろうか。新しいことを生み出すのは、証明でなく、『原論』に書き加える(或は書き直す)作業だけなのではないか−−と観念の深みにはまる私である。一つの答えは、意味というより既知の事実から未知の事実へ変換する「論理の過程」に面白さを見るものである。これは論理と形の美しさに粋狂する数学者の数学だ。今一つの答えは、定理AなりBなりによってロケットが打ち上げられたり計算機が作られたりするのだ、と数学の「使いで」をいうもの。これは技術者の数学。

 僕は数学について考えてみた。すると何か数学が物凄く奥深い物に思えてきたのだ。きっと始めは単に物を数えたり、個数を記憶したりしていただけだろう。だが、どう考えてもベクトルや微分積分が日々の生活の必要性に基づいて生まれてきたとは考え難い。それは紛れもなくヒトの本能、つまり「見えないものを知りたい」という心から発生したのではないだろうか。数学の原点はここに有ると思う。人間は知的欲求を満たす為に見えない部分を考え始めた。そして数学は生まれた。僕はそう思う。

 「数学は唯一生徒が教師に勝てる教科や。」とK大附設高の著名なT先生がいっておられた。僕も一定量の知識を超えれば、数学には才能が必要になってくるだろうと思う。同じぐらい数学に関する知識をもっている人でも、同じ問題を解くときに、見当をたて思案して解答に辿り着く人もいれば、奇抜だが無理のないスマートなやり方で答えを出す人もいる。

 数学には解いていて楽しい問題と楽しくない問題がある。楽しくないものはというと証明だ。ただ単にとききらないからきないなのかもしれないがとにかく嫌いだ。なぜ嫌いなのかというと、解き方が思いつかないものが多いし、時に定理の証明などは暗記だからだ。例えば先日やったトレミーの定理の証明はその典型的な例だと思う。あの解き方は知っていないとできないと思う。これを自力で解けたら気分が良いと思うが、解けなくて答えを知ったら「こんなもん思いつくか。」と言いたくなる。また、証明の方法で背理法などはかなりせこいと思う。まだ、トレミーの定理の証明は答えを見て「すごい」と思い感動もする余地があるが、背理法は「こんな解き方しかないなら、問題を作るな。」といいたくなる。

 僕は勉強の中でだったら数学が一番好きである。数学をやっているときが一番集中力がもつ。英語とはえらく違う。もともと、勉強が好きというわけではないので、集中力がそんなに持つわけではない。しかし、数学だけは多分、人並みには持っていると思う。大体、小学校のときから算数で成績を保ってきたので、英語・国語などが悪くてもそんなに落ち込まないが、数学・物理などが悪いとさすがに落ち込んでしまう。家の仕事は寺なので哲学をやるために文系をとるのが普通であるが、僕は理系をとってしまった。家の個とをするまでの大学での生活は数学とつきあっていきたいと思う。

 又、せっかく興味を持ったとしても、すぐに基本的に遅れている人に合わせてやることが多い授業では、すぐにおもしろくなくなるだろう。だから数学などの早期教育が有効といわれている教科(できれば全教科)で、飛び級を認めてはどうだろうか。(もっとも今、数学と物理は得に進んだ生徒(高校生)であれば大学の授業を受けてもよいという案があるそうだが)私はこの案に賛成です。しかし、この案には早期からの数学に特に力を入れることで他の才能がつぶれたりはしないかという反対がある。しかし、他の教科も少なくとも規定通りやれ、その教科が好きでやっているのであればよいのではないだろうか。

 「∞」は無限を表す記号であるが、これは数学自体にも当てはまるのではなかろうか。小学校の頃、足し算を習い、引き算、掛け算、割り算と複雑化し、方程式も習った。しかし、方程式といっても一次のxを求めるぐらいのものだった。その頃、中学や高校の未知数が三つも四つも並んでいる式を見て、「こんなの解けるわけがない」とはっきり思ったのを覚えている。しかし今ではしょっちゅう解いている。

 次に、数学教育について。数学か物理の成績がすごく(?)良いと大学の教育も受けられるそうである。これは良いことだと思う。数学などは才能があって数学感覚を早い時期に養っていれば、どんなに年齢が低くても(?)どんどん伸びるものだと思うからだ。あと、数学が嫌いだという人は、受験数学(?)が嫌いなのだろう。今からの社会では数学も重要になってくるはずだし、今でもかなり数学を使いこなしているはずだ。少し話がずれるが「加速度的」という言葉だって2次関数の増え方をイメージして使っているはずである。まあ、そのようなことを言ってみても数学がおもしろいかどうかは、題材しだいかもしれないし、おもしろい題材で授業するのが一番いいと思う。

 数学に対する率直な感想を言えば「好きでもあり嫌いでもある」という感じになる。一つの問題についてじっくりと考え、そして答えを出したときの爽快感(それがたとえあっていてもいなくても)、これが数学の好きなところである。数学の問題を考えるとき、その過程がパズルのような楽しみを持つものとなったらこちらの勝ちであるとわたしは思う。 一方でなぜ私が数学を嫌っているか。それは数学が受験勉強の中で手段化していることにあると思う。私個人としては(もちろんこう思わない方もいるとは思うが)、数学の楽しみとは問題に対しじっくりと構えることであると考えている。しかし、手段化された数学は私に問題と向き合う限られた時間しか与えない。ピーター・フランクル氏がおっしゃっていた「一つの問題を時には何日も考えること」は現在私たちが置かれている状況では成立し得ないのである。

 小学校の頃は、算数はとても得意だった。ただ単純に公式を覚え、ひたすら計算すれば点数が安易に取れる科目だったからだ。だからほとんど満点が取れて、自分でもかなり自信を持つ結果となった。が、中学生も終わりになると、さすがに数学的な内容になってきて、一筋縄では行かなくなった。ここで真面目に勉強すれば良かったのだが、持ち前の怠慢さと、自分なら取り戻せるという自惚れが高一における数学の不調に繋がってしまった。ここで自分は原点に立ち戻って、真剣に数学を見つめ直した。最終的に導き出した数学の点数を上げるための自分なりの方法はとにかく様々なタイプの問題を解き、あらゆる問題に対処できる数学の知識を持つことだろうと思う。例えて言えば、数学科のI先生のようになることである。

 僕は時々社会に出てこんな数学の学習は役に立つのだろうかと思う時がある。計算は電卓がやコンピューター普及しているので「+−×÷=」の意味や使い方さえわかっていればそれらに計算させると良い。方程式や図形などは専門職につけば使うかもしれないが、実生活のなかでは見ない。確率なんかは、ギャンブラーでさえも使わない。確か中三の時、R先生が「数学は数字を使って論理的に考える力をつける教科科目なんですよ。」などといったことを覚えている。確かに数学は論理的である。しかし、なぜ「数字」なのか、僕にはわからない。このように書いたが、別に数学を批判しているわけではない。僕は、時々計算間違いでイライラする時もある。しかし、難問が自力で解けたときの喜びや、きれいな形で答えが出たときの喜びがあるので、数学という教科があったほうがいいと思っている。                                                                    
何のために数学をやっているのかと言うと、僕自身は、「一つの考えを、論理的かつ合理的に説明するための訓練である。」と考えている。実際の数学というものは面白いものである。当たり前のことではあるが、答えが出てきたときのあの感動がたまらない。(僕にとって、英語と数学との間には天地の差がある。)そんななかで一つだけ残念と思われて仕方がないのが、答えが一つで決まってしまっているということである。まあ、そうでなければ訓練にならないのであろうが、やはりちょっとつまらないのである。何か物足りない、しかしそれが何なのかは分からないと言った、ちょっといい加減な結論になってしまうが、これがいま僕が思う数学に対する考えである。(楽しいからいいかと言う考えもある。)

 算数が数学になってから、まず説明を要求されることに戸惑った。小学校では、説明よりも答を優先する採点だったので、説明などと言うことは一度も考えたことがなかった。証明はなおさらである。ところで、ぼくは代数よりも幾何のほうが好きだ。理由は、代数に比べて幾何の方が自由だからだ。一つの問題をいろいろな方法で証明することの楽しさを知ってから、幾何学がますます好きになったというわけだ。特に平面幾何は、補助線1本を見つけだす喜びがたまらないと思う。代数のように数字や文字をこね繰り回して答を出すわけでないところが、計算の苦手なぼくむきだったと言うこともあるだろう。
         
日本の教育というものは基本的に「行きすぎて」いる、と僕はいつも考えている。特にここ一年ほどはそう思う。理由は兄にあるのだが。教育課程を諸外国と比べるものは、万国共通である理系以外は存在しない。国語や社会(歴史)の文系は其々の国で違ってくるからだ。その中で数学でアメリカ等と比較してみると、大学受験時の学力差はかなり凄まじいものだと思う。実際アメリカのセンター試験とも言うべきSATの数学の問題は、英語さえ読めてしまえば日本の高校一年レベルでもかなりの点数は取れてしまう。(実際僕はそうだった。)簡単にいってしまうと、日本での高校二、三年に習うことは既に、社会で使うこともなく、個人の趣味のレベル、もしくは教育者レベルでしか必要の無いものである、という事ではないかと言う事である。算数での思い出というものは少々存在する。その一つとして「第一回算数オリンピック」がある。これは英進館に行ってた人は覚えている人が結構いると思う。僕は一点足りずに一次で落ちてしまったが、問題を解いたとき、こんな算数もあるんだなと、ちょっと感動というか感慨に耽った事を覚えている。

 例えば、微分。今でこそ簡単にとまでは言えないまでも、ちゃんと理解して、解いている。何のために使うのか、はっきり言って理解しがたい。微分の親戚に、積分というものがあるが、これも同様だ。実際は、工学関係の分野で使われているようなのだが。結構役に立つこともある 加速度検出して積分して速度を求め、さらにもう一回積分して移動した距離を求める。絶対にあっているという自信はないが、航空機の自動操縦装置にこれを使っているらしい。複素数平面や、三角関数などは、これから数学を専門にする人以外には、使うことがあるのだろうかとでも思っていた。最近そうでもないらしいということを知った。複素数平面については、平面図系や立体図形に応用できる。三角関数は、波長と関係あるようだ。sinを、使うことを最近習った。自分も含めて、理系に進むものにとっては、これから数学が関わってくることが多いであろう。そして、これから先役に立つような数学を習いたいと思う。

 私がなぜ数学を好まないのか、その理由をお話ししよう。私は以前から「数学なんか将来特定の人以外役に立たないじゃないか。」と考えていた。今でも多少であるがそのように考えている。これを今、日本に住む子を持つ親たちに聞かせれば、「将来のため、いい大学に行くために必要だ。」という類の答えが返ってくるだろう。しかし、現在の状況を見る限り、大学に入るためだけの手段であり、数学を専攻しない人々にとって無用の長物とまで行かないまでも、学問本来の楽しさがある教科とはとても思えない。某数学教師がいっておられたが、「数学は脳味噌のしわを増やすためにやっている。」らしい。なるほど確かにしわは増えるかもしれない。だが社会生活の中で本当に役に立つことがあるのか、と私は思う。

 小学校時代は今考えても計算が早かった。つまり、九九がようできた、と言うことだ。塾でやった事を学校で自慢しとった事をべつにすると、一番思いで深いのは、カナダでの出来事だ。僕は小5の1年間をカナダの現地校で過ごしたのだが、あっちには九九などという便利な覚え方はなかった。英語すらまともにしゃべれんかった僕だったが、体育を除くと唯一、mathematicの時間の文章題以外の時は異常に目立った。だから、Koh Okamotoをもじって、 Koh Automaticとか言われたり(っていうかアクセント的にも発音がめちゃ似とった)、" Koh Okamoto ,he is so automatic."とかラップの歌を作られた。日本に帰ってきて、塾に行くようになって、自分は天才じゃないことを自覚したが。

 算数にかぎらず、一つの解法で一つの答えがビシッと出る問題は今でも好きだ。だからこそ、今の数学は好きになれない。複素数平面という分野を一生懸命勉強しているときに、「この問題はベクトルの方がかんたん。」などと言われたら、ちょっと待ってくれという気持ちになる。はっきりしないから。まあ、そういう問題を、いろんな方向から考えて、合理的に解くのが数学というものなのだろう。

 数学も問題を繰り返し解くことで解き方を覚えないことには、問題を解くことはできないという、他のものと一緒のところがある。しかし、数学の場合それを覚えるとき自分でまとめて、自分の脳に自分でどうにかして自分のシステムでつめこまなければならない。それが面倒なところだ。他のものは、ある形としてあるものを覚えるだけだ。でもその分覚える数は多いのだろうか。また、数学は文系の人に必要なのだろうか。それとも、頭のよさをはかるために必要なのだろうか。とてもはっきりと文系の人に必要な頭のよさをはかってくれるのだろうか。

 アッペ=モルーの書いたおもしろい文があった。ピラミッドの一辺とその高さとの比は、高さの自乗がちょうど斜面の三角形の面積に等しくなるらしいのだ。高さをh、底面の一辺をaとすると、h2=1/2a√(h2+a2/4)となる。よって、a=h√(2√5−2)である。aとhの比は、a/h=√(2√5−2)なので、周囲4aと高さの二倍2hとの比は、4a/2h=2√(2√5−2)となって、計算してみると、4a/2h=3.1446≒3.14となる。しかし、モルーは、これらは偶然の一致なのであろう、と結んでいる。

 今まで、ついに数学が好きになることはなかった。また、この先も数学が好きになることはないだろう。しかし、この数学ができないという苦しみが、将来くじけそうになったときには役に立つだろう。私は数学というものが好きではないが、数学を愛している。

 数学は歴史とはちがう。数学は理解することができる。それが利点だ。そして、それらの公式を組み立て、問題を解く。それが、楽しい。解ければ、楽しい。しかし、僕は、そういう組み立てが妙に苦手なのだ。時には筋道が見えなかったり、見えていても横道にそれたり。そうして、時間が過ぎてしまう。だから試験の言い訳はいつもこうだ。「時間が足りない。」と。それは自分のせいやっちゅーに!とツッコミを入れたくなる。

 辞書をみていて目に留まることがあります。数奇な運命の「数奇」にはご存知の通り、不幸せ、不運という意味があります。どうして数という字が入るかといいますと、「数」には運命・めぐり合わせという意味があるそうです。僕もよい運命がくるように数学をがんばろうと思います。 Q.「すうどん」を漢字にできます?

 古代の数学者はすごい。すでにギリシアの時代から高度なことをやっていた。しかもその数学者は皆それだけでなく、哲学者であったり医者であったり、と別の分野でも活躍している。あの時代において、数学はすでに知識人の教養として定着していたのだろうか。また、ピラミッドをはじめとして、数学は古代文明を築くためにも不可欠な物であった。はたして古代の人はどのように数学をする事を覚え、どのように複雑な定理を証明したりしていたのか。われわれ現代人は古代人より文明も発展しているから頭がよいなどと自負しているかもしれないが、必ずしもそうとは言えないのではないか。数学はそういった古代人の一面をも想像させる。

 数学と言語のあり方は非常に似ている。どちらも根元的な存在喚起力として意識の中で世界を有意味化するのである。ただ数学の喚起する意味の背景にあるのは全世界共通の数の概念であり、文化風土を背景とする言語の意味付けとはその点で異なる。仏語では犬と狸とを区別しないが、フランスでも日本でもy=x2 の意味するところは同じである。それゆえに大きな可能性を持つだろう。仮に、あらゆる実存を数の量的な差異に還元できれば、数学の表現する意味は大きく広がるだろう。まあ、そんなの無理だろうけどね。

 10年くらい前、「公文式」を始めていた。たぶん最初の頃はまじめだったのだろう。頑張っていた。しかし、数年であきた。みるみる間にプリントがたまってゆく。その時の一緒にしていた友達と、進み具合の速さを競っていたが、勝ち逃げという形になった。ちなみに、「公文式」のその会場に僕の居所は当然消えていた・・・。

 私は、数学と算数という名前に分かれた原因は英語にもあると思います。算数は英語でarithmeticと書くのに対して、数学はmathematicsと書きます。この二つの単語が日本に入ってきて、訳したときに、このように名前の区別が行われたのではないのかと思います。数学は抽象的なのに対し、算数は具体的です。この両者をつなぐものが見つかれば、両方とももっと面白い学問になるでしょう。

 僕は数学は別に嫌いではない。でも数学の勉強をしなくてもよかったら、絶対しないだろう。現代の学校教育は知識の詰め込みに偏りすぎている。先人達が何百年もかけて発見してきた事実を、ほんの数年間で覚えなければならない。だから、頭脳的に無理がでてくる。いい大学に入るのが、幸福への一番の近道だと人々が信じているから、大学志願者は増える。でも多くの人がいい大学に入れるようになると、その大学のクオリティが落ちるので、試験は難しくなる。そうやって、みんなストレスとたたかいながら勉強する。

 僕は今の数学の教育がダメだとは主はない。世間では、日本の一人の教師が大勢の生徒に教えるのは、個性を殺し、子供に押しつけているなどと言われる。しかし、だからといって子供に応じてやるなどと言っても、今の子供達が自主的に学ぶ姿勢など見せるはずはないのだ。試験休みの間NHKのドキュメンタリー番組で「フェルマーの最終定理」についての番組があっていた。その中で僕がおどろいたのは、その証明の根底にはある二人の日本人がおよそ二十年前に立てた予想があったということである。

 数学、学者達だけおいといて無くしてしまえばいいのでは?中二ぐらいから、自分がやりたいものだけとってその勉強しかしない(いわゆる大学形式)の方がよいのではないのだろうか。僕自身、数学に興味は余りないし、点数がとりやすいからやっているだけのような気がする。第一、ツマランところ多いしね。やっぱり、やりたいことはっきりさせて勉強した方が能率もよくなると思う。

 分数を習った。とにかく意味不明だった。家にたまたまあった「算数・理科なんでも百科」みたいな漫画で、分数を調べてみた。そこには、なぜ棒の下の数字が分母と呼ばれ、上の数字が分子と呼ばれるのかが分かりやすい絵で、説明されているのであった。さらにすごいのが、真分数と仮分数の説明である。前の説明の時よりもかなり太ったおばさんが、上の子供を楽に持ち上げる。これが真分数。下のおばさんの体型は変わらないものの、上の子供がかなり太り、下のおばさんが汗を吹き出して支えるのが仮分数なのである。僕が知りたかったのは、なぜ二分の一が0.5になるのかであって、分数の分類ではなかったのである。後で、上の数字を下の数字で割ればよいということを知ったとき、僕はそれまでで一番感動したと思う。数学のある事柄について、あんなに深刻に考えたのは、今でも余りないと思う。

 こんな私を支えたのは中学三年の時に卒論制作をしていたときお世話になったK大学のSさんといろんな話をしてその中で数学は全て理解するのは無理でもその単元単元にある概念を理解することが大事でそれが後にもっと大切なものとなり、だから概念をちゃんと理解していけば応用でなんとかなるみたいな話を聞いて数学に対する考えが変わり、また勉強に対するやり方も変わってきている。だからどんなに勉強がやりたくなくても、最低限の概念だけはテスト後にもちょっと身につけるようにしている。

 数学の難しい問題もコンピューターに解かせるとあっという間に回答がでてくる。全く便利な世の中になったものだ。自分もパソコンを使ってインターネットなどをやってみたいのだが、ワープロも使えないのでそんなことは言えない。今の世の中、パソコンは使えるようになっていないとツライと聞いたような気がする。寮にも学校にもパソコンがあるのでそれをいつか活用したいと思う。

 そもそも古代の大数学者の中に数学で飯を食っていた奴などいるわけない。貴族の暇つぶしや、他の仕事を持った人の楽しみとして数学は発達してきたのだ。それを今の日本やその他の先進国では、その他にもたくさんやるべきことを抱えている学生にまで数学をやらせている。金を払って苦しい問題にぶつかって、分からないと教師にいやな顔をされる。こんなにいやなことはない。誰もがはやくこんな苦痛から逃れたいと思っているはずだ。


先生から

 受験数学をそれほど苦にせずにものにするにはどうしたらよいだろうか。数学を教え初めてもう20年近くになろうかというのに、まだその方法が見つからない。相変わらず、問題を自分の頭で考え解きまくれといった指導だ。結局これは自分が高校の頃やっていた勉強法と同じなんですよね。自分がやってうまくいったので君たちにも勧めている(押しつけている)わけです。このやり方は、とにかく問題を解き、途中で解らなくなれば解答をちらっとみてヒントを得、さらに先へ進む。計算は絶対に自分でし、間違ったらとことんやり直す、だから最後は必ず答えがあって達成感を得る。そして解答に使った紙(ノートだけでなくプリントやチラシの裏に解いていた)はできるだけ残しておいて、これが机の引き出しからあふれ、うず高く積み重なったのをみてさらに自己満足に浸る。受験勉強を楽しむ極意です。しかし、君たちの作文を読ませてもらうと、私のような単純な人ばかりではないことがよく分かります。こんなに才能にあふれ、かつ興味の対象がバラバラな集団をひとまとめに教えるなんてできるのかいな。私と波長が合わない人には、この一年ますます数学嫌いになる要因を作ってしまったかもしれません。まあ、ここに書かれた君たちの感想・意見をもとに、自分でも、これからどれくらい自由度の高い授業なり、数学の指導ができるか楽しみにしています。

中島健治[ 3月16日 ついに、10kmロードレースで40分を切ったぜ ]

 と、中島先生の文章をフロッピーから挿入して、長かった編集作業もやっと終わりである。何で数学で作文やねん、とお怒りの生徒さんも多かったと思うが、こっちはかなり楽しませてもらった。数学の答案と違い、千差万別、百花繚乱という感じがして非常に興味深く、また諸君の思考の深さに驚きもした。「数学の作文」は昨年、郡先生が46回生を対象に200字で試みられた。それの真似であるが、200字では書き足りてない気がしたので、400字以上とした。この位になると結構本音を自分の言葉で語ってくれるようである。しかし、まとめる段になると400字は多すぎて、申し訳ないが私が面白いと思ったところを200字程度抜粋させてもらった。「俺が言いたかったのはこんなところやない」という生徒さん。すみません。数学に対する、君たちの姿勢は{受験技術」「思考力の鍛錬」「パズル的興味」「将来の学問への基礎」「問題が解けたとき、力が上がるときの楽しさ」などに大別できるようである。「将来、役に立たん」という議論も多かった。いずれにせよ、ほぼ全員が後2年はつき合うのである。これを機に、自分なりのつき合い方を考えてもらいたい。最後に、タイプを手伝ってくれた笹尾、鴨川の両君と、印刷をお願いした事務の和住さんに感謝!!

97年3月17日  徳永 徹

追加の一編
 僕は数学が苦手だ。テストの時は何とか解いているがちょっとひねられるととても解けない。小学校の頃は何とかやり過ごすことができたが、中学、高校となってくると、とても厳しい。時々つまらないことでも、どうしてだろうと30分や1時間くらい悩むことがある。数学が得意なやつを見ると、なぜそんな解き方ができるんだと聞きたくなる。

再び徳永のコメント
 私の机の上は乱雑である(中島先生よりはずっとましだが)。今年の授業もやっと終わった、と机を片づけていると、作文が1枚でてきた。申し訳ない。因みに忘れていたお詫びにこの文章にコメントをすると、30分や1時間悩むということは、数学の勉強に関しては好ましいような気がする。悩んでるうちに様々な概念が頭の中で整理されて行くところがある。
ついでに少し断っておくと、作文のうちでタイプを生徒さんに手伝ってもらったものは、当たり障りがないものか難解で意味がとりにくいものに限っている。過激な(?)ことを書いた人は心配するには及ばない。

「数学は将来役に立つか?」についての私見。
 本校の生徒さんの進路を考えるに、大部分の人にとっては役に立つといっていい。理工系は微積や行列を使いまくるし、医薬農系や経済学、心理学などは統計学のお世話になる。そこで使う数学はすべて高校数学を土台にしたものなのである。
しかし、この「数学は将来役に立つか?」という問いかけ自体に意味があるのかという気もする。高校というのは、高等教育を施すところであって、義務教育ではないのである。そこには、多少とも学問の匂いがあるべきだし、学問というのは知的好奇心の発露だと思う。高次方程式の解が、複素平面を導入することで円周上に等間隔で載ってくるなどの事実が役に立つ立たないの価値基準で判断されることはナンセンスだろう。まして、附設の人たちはこういった知的刺激を(もちろん数学には限らない)鑑賞しうる資質を持っているのである。青臭いことをいうならば、君たちの優秀な資質で様々な教科を遊ぶのが高校なんじゃないのなどと居直ってしまうのである。


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47回生 笹尾 卓宏, 49回生 脇元 隆次 / webmaster@fusetsu.club.or.jp