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忘れられない体験

47回生  池ノ都 辰也

小学校一N生。だから今から十年位前の事。その頃の事で、一挙手一投足に至る程にまで自分の行動をはっきりと覚えている数少ない出来事の一つ。
 夏の、天気の良い暑い日。
 公団に住んでいた私は、隣りの棟に住む友人の家へ遊びに行った。しかし、その時丁度彼は留守で、私は幾分がっかりしながら自宅へと向かった。その、友人の住む棟から私の住む棟へ帰る途中で通らなければならない駐車場。そこを歩いている時にрn面の上に何か跳ねるものを見つけたCしゃがんで覗き込んでみると齦Cのバッタが居る。辺りには草のある場所は見られず、なぜこんなアスファルトの地面の上に昆虫などが居るのかは分からなかった。それは、そこに居る事が不自然な生き物であった。
 私は再び友人の住む棟の方へと踵を返した。その建物の入り口の横に、粗大ゴミ置き場があるのだが、私はそこへ向かって走ったのだ。欲しかった物は、少し探したらすぐに見つかった。それは小さめの(それでもまだ小さかった私にとっては充分に大きく重い)鉄製の鍋であった。
 私はそれを両手で持って、先程の場所へ戻った。もしもその間にバッタが何処かへ行ってしまっていたならば何も起こらなかったのだろうが、バッタはまだ同じ場所に居た。私はその場にしゃがみ込んで、バッタに手を伸ばした。バッタは私の指先がその体に触れた瞬間に一回跳躍して、五十センチ程離れた同じくアスファルトの地面に着地した。私は鍋を持って立ち上がった。そしてバッタの居る場所に近付くとその鍋を高く頭上に振り上げて一気にそこへ叩きつけた。
 林立する棟に反響して、すさまじいばかりの金属音がした。同時に私はキーンと響く酷い耳鳴りを頭に感じ、目の前が真っ白になった。
 どうしてバッタを殺す気になったのかは、今の私にも分からない。余り感情の無いまま、ただ居て欲しい友人が家に居らずに、居るはずのない場所にバッタが居たという事実に対して少し憤りを覚えた事が引き金となったのだろうか。
 耳鳴りが去って、視界も元の様になると、私は自分が鍋を落とした場所を見た。鍋はバッタの下半身を潰していた。腹から上はさっきまでと変わらず、下の部分はバッタの肉や体液が平たくなって広がっている。私は今度は横に転がった鍋を手に取った。先程よりももっと近くで、私はバッタを潰した部分を見る事ができた。そこには、黄色だったか緑だったかの液体、若しくは平たくなった固体かがこびりついていた。
 それを認めた瞬間、私は耐え難い臭気を感じて、胃の中の物を吐き出してしまいそうなむかつきを覚えた。そしてその瞬間、涙が出て来た。それは最初は肉体的な苦痛に対する反応としての涙だったのかもしれないが、しばらくずっと止まらなかった事を考えると、少なくとも途中からは、何か違った理由で流れるものであった様に思える。
 家に戻ってから、私はその出来事を母に話した。その時、母とどんな会話をしたのかまでは詳しく覚えていない。
 それから、私は生き物が殺せなくなった。例えば、学校の水泳の授業。プールサイドに子ども達が並んで座っている時、隣りの友人が私を呼んだ。彼の方を向くと、彼はプールサイドの小さな水溜りで蟻を溺れさせたり、つかまえてその体を千切ったりして遊んでいた。私は彼に止める様に言った。彼は面白くなさそうな顔をした。だが、千切れた蟻の姿は、私にあのバッタがひしゃげた映像と臭気を思い出させるのだ。
 私はその一件が原因で菜食主義者になった訳ではない。だから、その体験はお前にとってそんなに大した事ではなかったのではないか、と言われたら反論出来ない。ただ、あの体験は私にとって、少なからず生命に関して何かを学ぶ機会になっていたのではないかと、今になってみると思える。
 最近増えて来た、中高生のナイフを使った事件の記事を見て、私はその体験の事を思い出した。
 この間、母にその経験の事を話した。意外な事に、母はその時の事を覚えていた。
 幼い時には、誰にも残酷な衝動が起こる瞬間がある、と母は言った。成長していく過程で叱られて殴られたりする事で、人間は自分の(そしてそれはそのまま他人の)痛みという物を覚える。私にとっては、あの映像と匂いがそれであったのだろう。相手に危害を加えると思い出すあの痛み。
 今の少年達は痛みを知らないという事をよく聞く。同年代の人間の心理の分析など私には出来ないが、自分の体験を考えると、危害を加えられた時に起こる痛み、そして危害を加えた時に起こるあの不快感・痛みを経験していないという事だろうか。
 成程、あの出来事は私が成長していく上で出会わなければならなかった物の一つの形であったのかもしれない。私にはあの体験を忘れる事が出来ない。


池ノ都 辰也(いけのと・たつや)

現高校3年。

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