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邂逅、その歓喜と、そして別れ

48回生  本村 貴志

 今までの人生−人生と呼ぶには余りにも短い期間かもしれないが−を振り返り、そして自己の形成の過程を考えた時、忘れてはならない重要な要素がある。人物、書物、その他あらゆる物との出会い、すなわち邂逅である。
 人間は自分一個の力だけで生きているのではない。他人の助けがあって初めてゥ]々。というようなことを僕達は小学校の頃から聞かされてきたわけだが、今になってその事を理解した。と言っても「なる程、他人の助けが必要なんだ。」と納得したわけではない。僕が気付いたのは、邂逅が自己を形成し、そして人生に歓喜と幸福を与えてくれるという事だ。
 人がその人生の中で経験する邂逅は数知れない。僕もまた、十六年という短い期間にも関らず、多くの人と出会い、多くの本を読み、そして多くの経験をしてきた。これら一つ一つによって「僕」という人間は成っており、歓喜し、そして世界の悠々の流れの中に自己を見出す事が出来るのである。もちろん、これらの邂逅の中には、嫌悪感を覚える人間や、面白くない(とても自分を啓蒙するには至らない)書物との出会いもあるわけだが、しかしこれらもまた後になって考えるとやはり自己の成分と成っている事を感じるわけで・・・。
 と、まあこれまで偉そうな事をくどくど申し上げて参りましたが、一番いいたかった事は、「人との出会いは楽しいわ♪」ってことに侍り候ふ。人生の師だとか、刎頸の友だとかは関係ない。どんな人とでもいい。生きとし生けるもの全てとの出会いに−僕は理系であるが−奇なる運命を感じ、そしてそこに人生の幸福を見出す。
  ここで僕は、邂逅を二種類に定義してみた。一つは、公的な邂逅。これは即ち同じ学校の友達であるとか、教科書に載っていたために読む事が出きた論説その他の文章を指すと定義する。もう一つは、私的な少数との、もっと偶然性を持った邂逅である。
 これは、たまたま同じ電車に乗り合わせた人だとか、旅先で知り合った人だとかそういった類の出会いを指すと定義する。
 先程僕は、全ての邂逅に人生の幸福を見出すと前述したが、それは特にこの二種類の内後者において著しい。ところがこれは、日本では−特に日本人に対して−余り期待出来ない。これはひとえにその民族性によるものであるからしようがないと考えているが・・・。
 話が別の方向に向いてしまったので(ていうか自分自身何が書きたいのかわからなくなってきてるので)、今まで述べてきた事の具体例、即ち僕自信の経験を話したいと思う。
 これまで「邂逅の中に歓喜がある」などと気障なことをいってきたが、なにがそんなに嬉しいのかというと、他人と、見ず知らずの人とのコミュニケーションにある。この点において思い出す限りで最も印象深かったのは、1994年12月−僕はまだ中一だった−イギリス・ヒースロー空港・・・。
 というわけで具体例なのだが、何も僕の海外経験を自慢しようなどという魂胆は少ししかないのであしからず。何故イギリスに行ったのかといえば、ホームステイだったのだが何しろ英語教師以外の人物とはじめて英語で会話したのだからその感動はとてつもなかった。空港からステイ先までバスで一時間ほどだったのだが、その間胸のうちから込み上げてくるどうしようもないうれしさに、僕は笑い続けた。
 滞在していたのは2週間ほどたったが、そこでの体験は実に素晴らしいものだった。当時はその表現しがたい歓喜をただ単に英語が通じたこと、即ち外国人とのコミュニケーションによる物だとしか考えていなかった。しかし今になって考えてみると、もちろんその要素も含めて、全ては邂逅なのだと理由付ける事ができる。ホストファミリーとの、スクールの先生との、そして英国文化との邂逅。日本における日常では手にいれる事の出来なかったであろうあたらしいものとの接触は、将来の大きな糧となる事を固く信じている。
 どうも日本人との邂逅を否定しているかのように話が進んでしまったので、ここでもう一つの僕の体験談。
 今度はもっと最近のことで、高一の冬休みである。場所はアメリカシカゴ(くどいようだが自慢するつもりは少ししかない。)私的な話になるが、僕はバスケ部である。いくら附設バスケ部が軟弱と言えども、下手の横好きという言葉の通りやはりバスケは好きなわけで、親に頼んでブルズの試合を見させてもらったのである。まあそれ自体が感動だった。がそれはこの話とは関係がないので、やめておこう(本当は語りたいんだけどね・・・。)
 当然の如くアメリカ人の民族性というのは英国人のそれとはまた違ってノリが良く、ブルズの服を着て飛行機に乗ったらスチュフートが「俺もファンなんだ。一緒に応援しようぜ!」なんて話し掛けてくる。とにかく話し掛けてくるし、また話し掛けやすい。バスに乗ればバスの運転手と、ホテルに泊まるとハウスキーパーと、トイレに並べば一緒に並んだおじさんと仲良くなれた。どれも普通の人である。邂逅の中に歓喜を見出すにはそれで充分なのだ。何もM・ジョーダンと仲良くなれたわけではない(そりゃ仲良くなりたかったけど・・・)。遠く日本から来た僕が、ただその日その時トイレに並んで掴んだ普通の人との出会いに、何かしらの意味を考え、何か得体の知れない嬉しさが込み上げてくる。
 また外国人との邂逅の話になってしまったが、もともと書きたかったのはこの旅行における日本人との邂逅なのだ。ツアーに参加したのは僕以外に20人ほど。すんでいる所も年齢層も違う人達が、実に偶然一つの目的のために集い、そして仲良くなれたのはとても貴重な体験だった。今でもその人達との手紙のやり取りは続いている。
 ところで、どうも話がだらだらと何の脈絡も無くなってきたように思う。これも僕の表現力の乏しさの為すところだが、一番いいたかった事は前述した通り、「人との出会いは楽しいわ♪」なのだ。
 ここで忘れてはならない事がある。森羅万象には表裏があるという事実はここでも例外ではなく、出会いがあれば即ち別れもあるのだ。
 別れというのは非常に辛い。ホストファミリーと別れる時など、涙を見せないようにする事で精一杯だった。多くの出会いがあれば多くの別れがある。しかし僕はそれでもやはり多くの人と知り合う事を楽しみにする。何故なら「出会い」と「邂逅」は違うからだ。
 この原稿を書きはじめた時は、邂逅という言葉の意味を良く理解していなかった。「出会い」と書くより「邂逅」と書いた方が、カッチョエエー!という考えのみで使用したのだが、「邂逅=出会い」とするには余りにも安易だったように思う。出会いは、別れてしまえば終わりだ。だが邂逅という言葉にはそれ以上の何かがあり、それは永遠に残るものだと確信している。だからこそ、いつかは別れがあると知りつつ邂逅に歓喜を見出す事が可能となる。その歓喜は人生の幸福をもたらし、将来に残る大きな財産となる。
 僕は外出したり旅行へ行くことが好きだ。何故ならそこには新しい邂逅が潜んでいるに違いないからだ。
 勢いに任せて書いたため、話があちらこちらに飛んでしまい、どうも空虚でつまらない話になってしまったようだが、ひとまずこれでペンを置きます。あしたはどのような出会いがまっているのかと心を躍らせながらゥゥゥB


本村 貴志(もとむら・たかし)

現高校2年。

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