第28回男く祭記念文集 [ 目次 | 前のページ | 次のページ ]

ほんの四半世紀

41回生  相部 任宏

 なにしろ、ものの24年しか生きていない。就職さえこれからだ。屁みたいなもので、何をおこがましく語るのかと自問自答して赤面する。
 それでもなお後輩の皆さんに幾ばくかでも役にたつことを書こうとするならば、これから皆さんが、おそらくは5、6年のうちにつきあたるような問題について書いておくのが最適であるのかもしれないと思いあたった。
 それが、今の僕が背伸びしないで書ける最高限度のものであるように思うから。そしてそれは、これから大学に入ろうとする人にとっては、少しは聞いておいたほうがいいような気もしないではないから。

 附設に入る前の話からしておこう。歴史が無類に好きだった。熱狂的といっていい。巷の歴史少年によくあるように、はじめは英雄が戦場を駆け巡るという類の話に熱狂していた。それがやや長じて、いわゆる近現代史に興味をもつようになった。
1985年ごろのこと、世界はまだ東西に割れて核戦争の恐怖がいわれていた。「ソ連が攻めてくるかもしれない」という恐怖を実感したのは僕らの世代が最後かもしれない。日本ではまだ、謎めいた生ける日本近代の象徴「昭和天皇」が存命していた。

 近現代の歴史において、こういった同時代的「記憶」は重要である。つまり近代化、戦争、敗戦、復興と、陸続として連なる近現代を、自らにつながるものとして意識することがまだまだ容易だった。
 かくもスリリングなジャンルをほうっておくテはない。小学校5年あたりでは児島襄の「東京裁判」や、戸川猪佐武の「小説吉田学校」を読みあさる、これはまあ、嫌なガキだった。――いま考えれば、実証の学としての「歴史」よりも、オハナシとしての側面に魅せられていたにすぎないのだが。

 生きている近現代に自らをコミットさせてゆく手段としてこの生意気なガキが最初に思いついたのは、吉田茂からつながる保守政治の歴史に政治家として身を投じるということだった。ソ連から日本を守るという、政治的というよりはいくぶん右翼がかった愛国熱があったことは否めない。そのためには東大に行って文Tに入って官僚になって、と、お決まりのことを考えていた。
 地元選挙区に、幹事長までつとめたTという政治家のいたこともその大きな理由であった。中学に入ってもこの夢想はしばらく失せることなく(要するに出タガリだったということも無論ある)、過去の研究論文集をひっぱり出して貰うと解るが、この政治家の伝記を脚本形式で書いていたりする。

 だが人間はいつまでもそう馬鹿ではないから、政治家という仕事がいつも吉田茂のように雄々しさに満ちてはいないし、石橋湛山のように清廉さに満ちてもいないということには嫌でも気づくようになる。労ばかり多く、小ずるく、倫理を捨て去ったあげくに虚飾に群れるという現実政治の浅ましさには、さすがに身を投じるためのモティベーションを失わしめるものがあった。
 中学3年のころのこと、このころ昭和天皇は死に、リクルート疑惑が世を席巻していた。冷戦も崩壊した。チャウシェスクの崩れ落ちる体と共に、憑き物が落ちるように政治への情熱も薄れていった。
 前掲のTの伝記が脚本という形式で書かれていたことには、僕のこのあたりの機微がうかがえておもしろい。僕は近現代のことを読みあさるうちに、古い映画だの流行歌だのに関心をもつようにもなっていた。こういった文化的方面への関心が、以後は増すようになる。高校に入る頃には、政治方面のことには皆無とはいわないがほぼ関心を失う。
 「映画研究会」という文化部を作ったのはこのころだった。あまり知られていないが、視聴覚室には、学校機材としてはきわめて性能のよいビデオ編集機材が置いてある。色んな映画を見るうちに、自分でも撮ってみたいと思うようになっていた僕には、この状況は垂涎ものであった。末永先生に色々お願いして、ついに活動が開始された。第1作は僕が主演した麻薬中毒教師もので、1年の文化祭で上映したところ、割合観客が集まったので、僕は得意になった。高2のときは小津の出来の悪いパロディーを作ってRKBのビデオコンテストに出したりしていた。――どれもこれも、今見りゃほんのお遊びでしかないが!

 この辺で、自分の本当にやりたいことに気づくべきだったのだろうが、前言を撤回するようで申し訳ないのだが、人間はそう利口にもできていない。ここで僕は再び馬鹿になる。大学受験の前、志望を決めるにあたり、「いや、でもやっぱり俺は文Tに行って官僚になるのだ、政治家になるのだ」と決意してしまうのである。見栄の怖さである。
 九州という土地柄もある。周りの目ということもある。現に僕が東大に行きながら官僚にはならなかったことを知った父の取引先の人は「それは惜しいことを」といった。東大文系に行くからにはホーガクブでオークラショウで、という固定観念に抗うことも僕はなかった。自分がどう考えてもその地道さには向いていないことに気づかずにいた。
 現役で法学部に進むことになるある友人が、「文学部では飯が食えない」といったことも割合大きく作用した。それに、数学をのぞいては成績もさして悪くなかった。さまざまな要因があいまみえ、かくしてスケベ心がもぞもぞと動いた。

 ところが僕は数学ができなかった。佐々木先生には無駄な努力を強いたようで申し訳ないのだが、とにかくできなかった。毎度の火曜テストはこの世の憂鬱の極みであった。しまいには勉強を投げてしまい、得意な日本史や世界史ばかりやっていた。
 70点を90点にする努力よりは30点を50点にする努力のほうが楽なことは、末永先生も指摘する真理であるが、易きに流れる受験生にはわからない。僕が1浪して驚いた人があったが、あり得る話だとは自分で思っていた。センターが派手に悪く、後期は一橋に出していたが足切りになった。僕は浪人になった。

 もっと余計なことに、僕は東京で浪人した。あまり信じてもらえないが僕は人みしりで、東京では根拠のない孤独感に苛まれた。浪人浪人と一概にいうが、こんなものいわばていのいい失業者である。
 予備校からはしぜん足が遠ざかる。予備校のあるお茶の水駅で降りるには降りるが、そのまま神保町に直行し、本を2時間かけて1冊購入し、近所の公園で読み終わっては帰るということを繰り返していた。本は読んだが、数学はもちろん出来ないままだった。1本の補助線を引くこともなく、僕はまた東大文T前期に滑った。早稲田慶応では負けなしだったが、なに高校の遺産を食いつぶしての結果である。僕は早稲田に行くつもりで吉祥寺にアパートを借りた。

 どうしたはずみか、東大の後期試験を受けられることになった。センターの結果がまたしても派手に悪く、文Tも文Vも足切りライン。文Uは後期も数学があるからラインが若干低いが、それでも3大予備校のうち2つは僕を足切りと見なした。後期の受験票が届いたことはだから、結構意外だった。
 いばるわけではないが、いばる。東大後期の模試では全国2番より下をとったことはなかった。模範解答になったこともある。論文を書くのは好きだった。後期にもちこめば、まあ負けはない。経済数学は白紙だったが、僕は文Uに滑り込む。だからいつも僕はお情けで東大にいるのだということにしている。

 この2年の受験生活を通して僕が学んだのは、自分が地道な努力を積み重ねてゆくタイプではないという事実であった。このことに気づいたのは大きかった。文Tで法学部で官僚でなどというのは、はなから出来ない相談であるということにここで思い当たった。何しろ僕は2年間の受験生活さえ忍耐できなかったのだ。法学部で以後もうち続く受験生活(司法試験とか、公務員試験とか)に、到底耐えられるはずはない。
 ――話は些か飛躍する。文系で成績がいいというだけで文Tを選択するのは相当にきつい選択であるということを、ここで念をおしておきたいのだ。基本的に法学部というところは、一字一句誤謬のないインプット、アウトプットを目指すところである。自分の考え、というものは少なくとも学部生の段階では出ようがない。最も実のある過ごし方としては、勉強しかあり得ない。試験も年に1回で、必修がやたらに多く、範囲が広い。難しい。
 地道な努力をする人でなければ、まず耐えられない。耐えられるのは、法曹や官僚を目指す人しかありえない。勉強の動機がもてないからだ。
 「文T」という「つぶしのきくもの」には、これを理解した上で、目指して欲しい。僕は法学部の悪口をいっているのではない、文系の学問のありかたとしては、ここは特殊であるぞといっているのである。
 就職ということならより楽な経済学部がある。よりクリエイティブな発想をしてみたければ(あるいは、あまり世間の役に立たないことを考えてみたければ)文学部や教養学部がある。
 成績で学部を決める弊害は、大学にいるとよく見えてくる。一考して欲しい。自分の志向性、というものをひとつじっくり考えてみて欲しい。難しいことかもしれないが。

 話を戻そう。つまるところ、ある目標に向かって忍びに忍んで勉強を重ねるということは僕にはできない。出来る人も無論いて、そういう人が日本を背負って下さるわけだが、絶対にそれは僕の任ではない。日本を背負うというのは、どうやら並大抵のことではない。
 僕は、僕の本当に好きなことをやろうと思った。それが結果として世間様のためになればそれに越したことはないが、法学部や経済学部の皆さんがやるほど直接的なものではあり得ない。
 僕はあまり地道でない「文化」の世界で生きてゆくしかないと考えた。好きだった近現代の歴史をじっくり、しかも学問とは違うエンタテインメントの領域でやってみたくなった。僕の今までの関心の指向性を総合すると、そういう結論が出た。

 直接的には統計をやるのがいやさに、文Uからは2ヶ月で転部を決意する。就職はしたかったし、するとすれば「文化」の周辺を低回したいと考えていたから、新聞かテレビだろうと考えた。だとすれば経済学部にいる必然性はない。
 上記のような条件をほぼ満たすのはNHKあたりだった。NHKで近現代ノンフィクションが作れたら楽しいだろうな。そう考えた。
 自分のしたいことがどうやら朦朧としながらも見えてきた。将来そういうことをしている自分をイメージするようになった。大学1年の夏、金日成が死んだ。直後の北朝鮮観光ツアーに混じってビデオカメラを回し、1時間ほどのドキュメンタリーを作った。「ぴあ」に宣伝を打ったところ、客がやたらに入った。高校1年の時の上映会を思い出した。――俺はこの仕事がしたいのだなと、いよいよ確信した。

 文学部の社会学というところに僕は進んだが、ここはレポートを出せば単位が来るという天国のようなところで、ずいぶん羽を伸ばさせてもらった。
 モラトリアムとういうのは、それなりに大事である。法学部の友人が本を読む暇も映画を見る暇もなく図書館で勉強を重ねているさまを見る(無論彼らは彼らの目標のためにそういう犠牲を自らに強いているわけで、非難するにはあたらない。ただ、僕の進もうとするジャンルは、努力すればよいというものでもないのだ。)につけ、自分が文Tに受からなかったことに感謝した。
 ああやはりあそこは、刻苦と勉励の果てに栄光をつかもうとする場所なのであるなと得心した。誰かが見えざる手で自分を文Tからたたき落としてくれたような気さえ、今ではする。

 あと2ヶ月で、僕はNHKにディレクターとして入社することになっている。希望するような、近現代ノンフィクションが作れるかどうかわからないが、ともかくも可能性は残された。競争者も多かったことだし、めったにないいいチャンスをつかんだものだと、少なくとも今では思っている。
 ただし僕もまだまだ馬鹿だから、来年の今頃、「こんなはずじゃなかった」とうめいているかもしれない。

 その時はどうぞ・・・叱ってやって下さいませ。


相部 任宏(あいべ・ただひろ)

1974年4月2日、福岡県田川郡川崎町生れ。
1987年から1993年まで、附設に在籍。中学19回生、高校41回生。高校で映画研究部(現在は廃部)を創設、活動。
1993年、東京大学文科T類を受験し撃沈、浪人。駿台予備校お茶の水校にて無為な日々。
1994年、前期文Tで轟沈するも、後期文Uで大学へ。大学では映画研究会に所属。
1996年、数学から逃避して経済学部進学を忌避、文学部行動文科学科社会学専修課程に進学。一応文化社会学を専攻。
1997年、東京大学120周年企画「知の開放・東大チャンネル」にて文学部番組の制作を担当。
1998年、卒業予定。卒論は「近代日本流行歌における中国の表象」。卒業後は日本放送協会(職種:番組制作)に就職予定。

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