第28回男く祭記念文集 [ 目次 | 前のページ | 次のページ ]

日曜日に思う

32回生  石原 信一郎

 天気のいい日曜日の午後、ある病院で当直していた。病棟に顔を出すと一人で広い部屋に寝かされ、点滴を抜かないよう手足を縛られているおばあさんを見つけた。車椅子に移して点滴をしながら談話室へつれていくと、何人かの他の患者や介護人と会話し始め、おいてある本に手を伸ばしたりする姿が見られた。点滴を引き抜くこともなかった。こういうマニュアル通りでない思いつきは医師自身が動かない限り始まらない。このような寝たきり状態は看護人が少ないことや、小家族の問題から作られているわけで、残念に思う。

 観察室には呼吸器に依存している3人の意識のない患者がいた。70才の脳出血後一週間の患者はとくに呼吸状態が悪く、すこしでも穏やかな呼吸になるようにと古い機械を微調整した。面会時間に家族と顔を合わせると、やはり見ていてつらい様子である。70年も生きてきて、最後にこんなに息を切らしているところを他人にさらさないといけないものなのか?

 その人と家族の人生になにをしてあげられるか、最近の医学では患者・家族のQOL(quality of life)などと呼んで重要性を強調しているが、臨床の立場で自分の言葉にすると「service業のプロ意識」である(service業という言葉に抵抗のある同僚も多いが)。患者一人一人の人生の目的・欲求をどこまで理解できるか、とても難しい。

 忙しい病院で勤務中は、毎週一人の割合で死亡診断書を書いた。脳神経外科では病気自身、あるいは手術の失敗は直接命とりとなる。救急室の入り口までは息があった人が、処置室にはいったらもう息絶えていたり。仙台から単身赴任の50代男性、ようやく辞令がでて2年ぶりに仙台へ帰れると喜んでいた矢先、くも膜下出血で倒れ、5日後に死亡。球場のベンチで応援していて段差から転落、急性硬膜下血腫で半日で死んだ野球少年。志半ばで死んでいく人たちを目の当たりにして、改めて時間の大切さを思う。

 呼吸器の件をカルテに書きながら、最近写真週刊誌に載っていた、脊髄の電気刺激で寝たきりの人がしゃべり出した話を思いだす。簡単な手術で済むが、この病院ではまだやっていない。慢性疼痛にも有効で、手技の安定している大分の病院に数人紹介して、喜ばれている。あの人ならこの治療に向いているな、と、ある脳出血の患者を思い浮かべていた。

 あろうことか、その夜その患者が急変した。寝たきり患者ばかりの部屋で、一人呼吸停止しているところを発見された。脈もなく、顔色も蒼白であった。心肺蘇生術を施したが、効果なく、30分後家族の到着を待って死亡宣告をした。55才の一家の主、脳出血にて入院し、緊急手術を受け、発症から3ヶ月、意識はあったが寝たきりの状態であった。肺炎を繰り返していた人で、突然痰が気管に詰まった模様だった。最近は体力が回復して落ちついた病状だったのに。無力感におそわれ、この人は幸せだったのか、なにか他にしてあげられることがあったのでは、反省の時間がつづく。子供さんがまだ若かったことを思い出す。思い立ったときにやらないと悔いが残るというが、あまりに短すぎた。

 別の日曜日、NHK衛星日曜スペシャル「知られざる遺作・ベトナム戦争を撮った男たち」を見た。1965年生まれ、映画好きの私には、アメリカ寄りの報道や映画を中心にベトナム戦争についてのイメージが作られている。それぞれの陣営に別れたベトナム人はもともと同じ民族だという当たり前のことをこれまで意識したことはなかった。両方向から見たベトナム戦争の悲惨さ、本土で戦争を体験した人たちがどれほど平和・人間性回復を望んでいるか、現代にひっそりと生きる関係者たちの人生の重みを湛えた言葉が、ベトナム戦争が試験にでる選択肢のひとつではなく、現実の社会にそのまま問題を残し、未だに息づいていることを教えた。高校を卒業してからも歴史の勉強は続き、それは点数を取るためにあるのではなく、人生観を形成し、人間を知るための材料を提供してくれるものである。

 そのあとで、附設生homepageの中に数学に対する附設高生の作文集をみつけた。遊びですと言い切る、俺と同じ様なことを考えているなと楽しく、且つこの若さで論理的に考察できている、ちゃんと数学の一つの目標を達成できているじゃないかと眩しく、またこんなにこねくり回しておおいに語るのが附設だよな、と懐かしい気持ちで見た。

 私は現役の間、数学は得意でなく、つきあい程度の関係であったが、浪人中に「解法の探求」のおかげで武器の一つとすることができ、良い印象をもっている。数学はいまとなっては、我が身にふりかかる難問に対して毅然と立ちむかう精神力・小さな努力目標を少しずつ達成しながら一つの仕事を成し遂げる計画性・いくつかの明らかな事を組み合わせて答えを得る論理的思考、といったことに気付かせてくれた「壮大な遊び」であった。

 その文集の中で「数学は実社会では役に立たないじゃないか?」という問いが比較的目についた。私自身、高校生のころに答えられなかったから気になったのかもしれない。一体高校の授業がどれだけ実社会に役にたっているのか?卒業生として、何がどれだけ役に立ったと言い切るのは難しい。大学生として学び、医師として必要な情報を集め、あらゆる背景をもった「普通の人たち」に病気の成り立ち、治療について説明し、手術をする、学会で発表する、専門書を読み込んで情報を手に入れる、といったあらゆる場面に、ちょっと見方をかえれば殆どの授業が役立っている。

 ベルリンの壁崩壊以来(1965年生まれの私にはこのあたり、古くはアポロ11号の打ち上げを出す方もおられるかも)、歴史がdynamicに変化していく場面は新聞の時代と違って家族の団欒の場においても画像を伴ってリアルに、ショッキングに目撃されることとなった。好き・嫌いにかかわらず、現代社会に必要な知恵と知識が高校の授業には網羅されているのである。教師との対決・宿題からの逃避に時間を費やすより、世界のニュースに目を向け、街を歩いて人がほんとに何かをして欲しがっている場面にぶつかり、現代社会のneedsを見極め、自分の人生のdata baseを豊かにしておくことをすすめたい。

 思いつくまま書いてみたが、通して感じることは、志を高くもつこと、社会問題に関心を持つこと。これは附設での友人たちとの楽しい、また真剣な議論で培われたものと思う。先生やクラスメートが言葉を発するときには注意を向け、友人との時間を大切にし、楽しんでほしい。それはすぐそこにころがっている民主主義である。

【編注:附設生ホームページ
   http://www2b.biglobe.ne.jp/~taku/fusetsu/】


石原 信一郎(いしはら・しんいちろう)

中学10回生、高校32回生、脳外科医師(6年目)、大学院生(2年目)

第28回男く祭記念文集 [ 目次 | 前のページ | 次のページ ]

Copyright (c) 1998, 石原 信一郎, 第28回男く祭記念文集制作委員会, All rights reserved.