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想像するということ

31回生  関本 善和

 あの朝、.....私は世界のひとつの終わりに立ち会っていた。

 崩壊する都市、死んでしまった街。
 家々は、一尺の木片が重なり合う小山と化し、高度成長社会が未来を見た高速道路は、飴のように曲がり、長々と横たわっていた。狼煙のように、方々で上がる火の手。不吉なガスの匂い。あたりは静謐さを守っていた。あたかも、祝日の朝のように。あるいは、核戦争後の夜明けのように。だが、目の前にあることは、夢だと思いたくても、眼を背けたくても、厳然として存在する。現実なのだ。そして、そこで私は、私だけは、『よそ者』だった。なぜなら、その声なき阿鼻叫喚の中で、ひとり仕事をしていたのだから。
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 生来の好奇心が抑えられずに、温かい学問の世界を飛び出して、縁あって関西のテレビ局に入った。関西というのは、たまたま大阪の大学に行っていたからで、別にこだわりがあった訳ではない。そしてそこで、東京支社の営業を経て、報道カメラマンになった。テレビというのは、報道、制作を問わず、映像に依るところが大きい。延々とまくしたてる原稿10分より、10秒の映像の方がどれだけ力があることか。逆に、映像がなければ何も始まらないことは、自分にとって、重荷でもあり、やりがいでもあった。
 大臣だろうが、ヤクザだろうが、一被写体に過ぎないし、また、差別を受けている者もg体が不自由な者も、生きている重みは等しく感じられる。今そこに居合わせなければ、その画は撮れないし、再び同じ現場に出会うこともない。その場でどれだけ画を切り取って、世界を構築し、表現するか。なかなか思い通りには行かないけれど、苦い楽しさと、うきうきとした疲れを伴って、面白く、しんどく、仕事をしていた。
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 あの時、多くの関西人は、震源地の真上に自分はいると感じたことだろう。実際、当時私が住んでいた、吹田の千里で震度6あり、何より関西には大地震はないという迷信がはびこっていた。大学でさえ、地学の教授が講義で言っていたほどである。北海道、東北と震度6クラスの地震が続いてはいたが、あくまで遠い地方の話であり、同じ、あるいはそれ以上のことが、関西で起こると予測する者はいなかった。
 私自身、近日中に起こるとは考えていなかった。実は、事件報道とともに、災害報道にも興味を持っていて、自分なりにいろいろと調べてはいた。何故なら、関西で報道に携わる時、地元へのサービスという意味でも、全国へ発信できるものとしての意味でも、そのふたつしかないと思っていたからだった。政治も経済も、そして文化さえも、東京に一極集中している現在、日々の報道として仕事になるのは、それしかない。じっくりと取り組む企画や特集ものを除き、テレビの特性を生かせる、速報性としての報道は、一地方でしかない関西では、情報源が少なすぎる。
 首都圏に対する関西圏の民度の割合は、十年前で37〜38%。今ではもっと差が開いていることだろう。営業に配属されて、初めて知った事実だった。東京に異常に対抗心を持つ関西人とは違い、九州は久留米生まれの自分は、もっと冷静に二つの関係を見ていたつもりだったが、それでも半分くらいだろうと思っていていた。しかし、実際は東京に対して三分の一ほどの規模だと知った時、日本が抱えている問題の源のひとつに触れたのと同時に、ここに暮らしていく以上、それなりのやり方を探っていくほかないと思った。だから、事件と災害の二つで勝負しようと考え、特に災害には注意していた。今から考えると何とも甘い考えなのだが、大地震に関しては、東京、及び東海地方を想定していた。つまり、その地域を担当する系列局の手に余る事態になるだろうから、その時どう協力したらいいのかを考えていた。もし仮に、関西で起こったとしても、たいしたことはないだろう。一応、震度6クラスのことは考えておくかと。
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 フライパンで煎られている豆のように、円状に揺すられている自分に気づき、目が覚めた。とっさに地震だと思い、身を起こそうとしたが、すぐに諦めた。枕元に重ねていた本が崩れて頭の上に落ちかかり、卓上のものが落ちて壊れ、閉めの甘い水屋の戸が開き、入っていたワイングラスが砕け散る音がした。揺れが治まるや、直ちに服を着替えた。どうせ皆が電話を入れて、本社はパニックになっていると思い、そのまま家を出て会社に向かおうとすると、(泊りの人間しかいないのに、非常時になると、情報を得ようと誰もが会社に電話して、余計に混乱させているのが常なので、)電話がかかってきた。当然出社要請を了解し、タクシーをひろう。行き先を告げると、運転手も理解してくれて、ラジオのスイッチをつけてくれ、制限速度を大幅に上回る速度で走ってくれた。ラジオはNHKで、どこかの年寄りが地震で倒れた家具で怪我をしたなどと、のんびりとしたニュースをやっていた。
 新御堂筋を走りながら、電車が止まっているさまや街の停電の状況などを観察し、取材の段取りを考え、組み立てていた。最近起こった北海道や東北の地震の時の映像を思い出しながら、地震の程度を予想した。どういう被害がどういう場所に出て、どんな様子だったか.....
 会社に着き、西宮の後輩から家が倒れたとの電話で、とりあえず助手とともに、そこに取材に向かった。
 尼崎では、家が壊れていた。西宮では、家が倒れていた。
 『阪神高速が100mにわたって倒壊している。』 本社からの連絡で、後輩の家に行くのを諦め、現場へと向かう。100mとの情報に、何と大袈裟なと思いつつ、手抜き工事の可能性から、公団の汚職の可能性まで取材対象を想定した。
 芦屋では、家はつぶれていた。そして神戸では、家はなくなっていた。
 現場に到着、確かに高速道路は倒れていた。100mどころではない。きのこ型の道路がはるか向こうまで寝そべっている。空が広かった。
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 反省することばかりである。油断もあった。限定された情報の中で、先入観に捕らわれ、予断もあった。しかし何より、情報がないのもひとつの情報だということに気づかなかった。すべてが手探りの中で、初動の取材に全力は尽くしたつもりだが、後から考えれば、こうすれば良かったと思うことしきりである。 想像を絶する事態ではあったが、それでもなお想像する力が足りなかった。
 3年経ったが、未だ震災は終わっていない。6千人余の命を奪い、何百万という被災者を出した震災はまだ終わってはいないのだ。関係のない人にとっては、所詮ひとごとでも、(その人が無事であったということにはお祝いを言う気はあるが)それでも震災は続いている。神戸の隣の大阪でさえ、被害が少ないこともあって、当時から余所事の雰囲気が一部あった。震災翌日にはもう、倒壊現場を背景に記念写真を撮る者が現れていた。他の地方ではなおさら、3年経てばなおさらであろう。だからといって、現実に目を塞いでもいいことにはならない。少なくとも現状を想像し、思いやるべきだろう。
 君たちは、大学を出て、そのほとんどが社会の中枢を担う存在となるだろう。その時に、世の中の弱い人、不幸な者、小さいもののことを想像する力を持って欲しいし、その存在を思いやって、想像して欲しい。ヴェイユのようにとまでは言わないが、やがて世の中の強者となるだろう君たちには、是非そうして欲しいと望む。生きることに、日々流されようとも。


関本 善和(せきもと・よしかず)

昭和39年7月15日久留米生まれ。
中学9回生、高校31回生。大阪大学文学部文学科仏文専攻卒。関西テレビ放送入社。現在、製作技術局ニュース運行部所属。

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