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我、上海にて思ふこと

35回生  武藤 充朗

 私は入社以来報道のカメラマン一筋できているが、元々は報道志望ではなく制作のディレクター志望であった。
「上背(161cm)の小さい私にとって、報道カメラマンたる職業は単なる苦行以外の何物でもない。」
配属当初はそう思っていた。
 しかし日が経つにつれ、私はカメラの虜になっていた。カメラマンの諸先輩曰く「テレビって言うのは何よりも映像や。」
そう、ジャーナリズムとしてのテレビの最大の特徴は「映像表現が最大の武器である。」ことに尽きる。「ベルリンの壁の崩壊」や「天安門事件」はその顕著たる例だ。迫真の事実を伝えることに腐心し、新聞や雑誌がどんなに文字を書き並べても、映像や写真の瞬間をとらえた「衝撃」には叶わない。
 ドキュメンタリーにしてもそうだ。本物の持つ「重み」には、如何なる優れた作り物も到達できない。取材でカメラを回している時、私自身も感動に打ち震えることが度々ある。目の前で起きている「事実」に加えて、その心の中から湧き起こる「感動」を伝えるのが、報道カメラマンの役目であり使命なのだ。
 今となっては、これほど刺激的で感性を試される仕事を与えてくれた会社に感謝の気持ちを表すしかない。
 その一方で、自分の思い通りに伝えられない、伝えたいものがうまく伝えられない、そんな歯痒さも常につきまとう。阪神大震災の発生直後、私は取材のためにヘリコプターに飛び乗った。倒れないはずの高速道路が倒壊し、街のあちこちが瓦礫の山と火の海と化していた。最も火災の被害が大きかった長田地区では、煙が一塊となってまるで火山噴火のように空高くまで舞い上がり強烈な上昇気流を作り出していた。想像を絶する眼前の光景に驚きを隠せないのと同時に、事実の全てを伝えきれない「映像の限界」を鮮烈に思い知らされた。地上に降りて、神戸や阪神間の街中を歩いていてもそれは変わらなかった。感覚的に言うと「余りにも巨大すぎてその大きさを把握できないオープン・セットに、何の前ぶれもなしに突然放り出された」ような感じだ。今一つ実感に乏しい、一種の浮遊感覚みたいなものをいつも心に抱えていた。それでいてまた、伝えきれないほどの悲劇やドラマ、悲惨な現状は厭と言うほど眼前に転がっている。しかし、やはりそれも全てを伝えられる訳ではない。取材拒否にも度々あった。加うるに、西宮市で独り暮らしをしていた私もまた「被災者」の立場にあった。気が付くと、我々が乗っていたような取材ヘリに対する非難まで席巻していた。
「一体何をどうしたらいいのだろう?よかったのだろう?」
答が簡単に見つからない夥しい数の難問に訳の分からないうちに包囲され、感覚や神経が麻痺してゆくような気分に苛まれた。あの時のことは一生忘れられない。
それから半年ほど経った95年9月、私は上海支局に赴任した。実は92年にも一度出張で上海を訪れていたのだが、その時とは驚くほど街の様子変わっている。3年前には影も形もなかった高速道路や恐ろしく背の高いテレビ塔、地下鉄などがいつの間にか出来ていた。ぞうやパンダが登場することで有名だった上海雑技団(サーカス)の大きな常設テントは消えていた。正直、同じ街に来たとは思えなかった。
 赴任してからもこの街は刻々と姿を変えてゆく。その様を表すには「日進月歩」という言葉がまさにぴったりで、繁華街でも3ケ月ほど遠ざかっていると自分が何処にいるのか分からなくなることもある。それは上海に限らず中国、いやアジアの国々ならばどこに行っても同じだ。「それは景気が良いから」と言われてしまえばそれまでだが、それ以上に街を歩いているだけで人々の活気や熱気がひしひしと迫ってくる。多くの日本の若者(私もまだ若いが・・・)がアジアに魅かれて旅をするのも当然だ。社会全体が疲弊しきった国ではなかなか手に入りにくい、未知の可能性や夢が人々や街のあちこちに溢れている。
 我々の支局のカバーエリアは上海周辺に限らず、中国全土に及ぶ。外国マスコミの取材に対して規制が極めて厳しい場所(チベットや新疆)もあるが、中国全土と一口に言っても国土の面積は日本の20倍以上あるのだから本当に広い。いろいろな場所に行ったし、いろいろな出来事に出会えた。蠍やカイコの蛹、甲蟹も食べた。そしていつも思い知らされることは、日本の常識が通用しない、と言うより日本の常識なんて1億人にしか通じない些細な決め事でしかない、ということだ。
 例えば、我々には日本のような取材の自由は許されていない(日本も決して全面的に自由ではないが)。何ごとも当局の許可が必要で、都合の悪いことはまず取材させてくれない。日本人が巻き込まれた交通事故でさえ、下手すると公安(警察)は平気で知らない振りを決め込んだりする。許可を取らずに取材を敢行して仮に拘束されても、我々は文句の一つも言えない。
何故か?基本的に「報道」というものに対する考え方が異なるのだ。共産党政権の国々においては「報道」=「宣伝」という意識が強く浸透している。だからここでは大々的なプロパガンダがいとも容易く行われ、庶民はその報道内容を全面的に信頼してはいない。今でこそ中国のマスコミの姿勢も少しは多様化の息吹が見えてはいるが、やはり庶民における最大の情報源は未だに「口コミ」である。でなければ、政権自らが「人民元の切り下げは行わない。」と明言しているにも関わらず、公定レートより安い相場での米ドルとの「闇交換市場」が成立したり、庶民がにわかに外貨を欲しがったりしないだろう。このように規制が多くやりにくい国ではあるが、幸いにもいろいろな歴史的イベントに触れられた。「黄書記亡命」(北京で1ケ月のお付き合い)「小平死去」、そして「香港
返還」。どれも忘れがたい思い出だ。
 しかし、本当の意味で中国が大きく動き出すのはこれからだ。「朱鎔基新首相誕生」。先月の全人代(全国人民代表大会)開幕直後の記者会見で彼を初めて間近に見たが、ユーモアとウィットに富んだ受け答えをさらりとこなせる、今までの中国の指導者にはあまりいないタイプだった。スマートで且つ何かを期待できそうな印象が強烈に残った。こんな「中国のゴルバチョフ」こと名高き清廉潔白な政治家が、改革開放政策の行き詰まりをどこまで修正し、また腐敗しきった官僚機構を如何に立て直すのか。来世紀には間違いなくアメリカと肩を並べる大国になるであろう、この国の行方は日本にとっても見過ごしていられないことである。
 残念なことにこの初秋には日本へ帰任せねばならないが、これからもこの国の行く末を見守る「市井の人」であり続け、そして日本の「今」を強烈に意識させる映像を撮るカメラマンの一人であり続けたい。


武藤 充朗(むとう・みつあき)

現職 朝日放送(株)上海支局特派員                
1968年12月20日生まれ 東京都出身                 
 81年4月 久留米大学附設中学入学                
 87年3月 久留米大学附設高等学校卒業              
 87年4月 慶應義塾大学経済学部入学               
 91年3月 慶應義塾大学経済学部卒業               
 91年4月 朝日放送(株)入社                  
   5月 報道局報道取材部配属                 
     (のち、組織改編に伴い報道局ニュースセンターに     
      編入・改名)        
 95年1月 阪神大震災に遭遇、当日はヘリでの生中継カメラ
      を担当         
 95年9月 朝日放送(ANN)上海支局特派員として赴任      
        現在に至る                    

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