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UNHCR職員として

36回生  川内 敏月

 ジャカルタの目抜き通り・タムリン通りにあるインドネシアの国連ビルは、どう控えめに見ても目立つ存在とは言い難い。5階建ての古ぼけた建物は、次々に建てられる地元企業や大使館などの高層ビル群の陰に隠れてしまう。 40年近く前に政府によって建てられたときには珍しがられたというエレベーターも、今では時々止まってしまうアンティークである。 東南アジアのここ数十年の「成功」の足跡ともいえる。そんな景色の中に昔ながらの屋台が揚げバナナを売っている。小銭を乞う、ボロを纏った老人が、歩道橋の上で今日も定位置を占領している。暑い一日が始まる…。

 常夏のこの街で、国連難民高等弁務官事務所(United Nations High Commissioner for Refugees- UNHCR)の職員として働き始めて一年が過ぎようとしている。 駐ジャカルタの国連機関がほぼ全て入っている国連ビルの五階の一角にUNHCRのオフィスはある。大学院を修えて得た初めての仕事であり、縁もゆかりも無かった国の生活でもあり、まだまだ毎日が新しいことの経験ばかり。 得ることが多く充実感を感じることもあれば、自分の力不足に情けなくなることもしばしばである。
 国連の職員になるにはいくつかのルートがあるが、私の現在のポストはJunior Professional Officer (JPO, もしくはAssociate Expert - AE)と呼ばれる若手を対象としたもので、財政面の負担はすべて出身国政府(日本人の場合日本政府)が担っている。日本人の場合、契約期間は原則として二年間で、その後国連自身が財政面を負担する職員になれるかどうかの保証は無い。いずれにせよ、国連職員になるにはどのルートをとっても、日本の雇用形態とは異なり、はじめから「終身雇用」ということは無い。 国連一筋にキャリアを組み立てていくコフィ・アナン事務総長や明石康氏のような人もいれば、関連のある企業、政府機関、NGO、研究機関と国連機関を渡り歩く人も多い。 例えば、UNHCRのトップである緒方貞子高等弁務官は永年上智大学で教鞭を執り外国語学部長まで務めた国際関係論の学者である。
 我がUNHCRジャカルタ事務所の代表(スウェーデン出身)も、UNHCRでの二十数年の勤務の前は、本国の公務員、NGO職員としての経験を持つ。 副代表(フィリピン出身)は国連開発計画(United Nations Development Programme - UNDP)の職員として国連のキャリアを始めた。 私のオフィスは、この二人の上司に加え、インドネシア人職員七名からなる、小さな所帯である。
 インドネシアでのUNHCRの活動は、1970年代後半に大量のインドシナ(ヴェトナム、カンボジア、ラオス)難民 が発生し、この国にも大量に流れ込んだときにさかのぼる。1980年代後半まで、多くの難民がいわゆる「ボート・ピープル」として日本を含むアジア近隣諸国に大量に流出した。しかしそれらの難民の殆どは難民を受け入れる政策をとっている国々(アメリカ、オーストラリアなど。日本も少数ながら受け入れた)に受け入れられたり、その後政情の安定に伴い本国に帰還したりしたため、インドネシアでも一昨年、シンガポールに近いガラン島にあった難民キャンプを閉鎖した。日本では長崎県大村に難民レセプションセンターがあったのをご存知の方もおられると思う。インドシナ難民を対象にした活動がほぼ終わった今、インドネシアのUNHCR事務所は、少数ながらアフリカや中東からインドネシアへやってくる難民の認定や保護、それに難民問題や難民関連の国際法のインドネシアでの理解と普及をその主な任務としている。難民保護官(法務官)としての私の毎日の仕事は、内戦や政治的迫害を逃れてはるばるインドネシアまで逃れてきた人々の難民審査とその保護である。中には、イラクから御両親とともにやってきた三歳のハッサン君のような子供もいる。多くの問題を抱えた人々と毎日接するのはストレスのたまる仕事である。UNHCRが、訪れてくるすべての人のすべての問題を解決できるわけでもない。その限界を感じながら、考えさせられるテーマは増えるばかりである。
 私自身の難民問題への関心も、当時テレビや新聞で話題になったインドシナ難民に始まった。同じアジアに住みながら、たまたま日本に生まれたために物質的にも精神的にも特に不自由の無い毎日を送る自分と、たまたま戦乱の国に生まれたというだけで今にも壊れそうなボートに乗って見知らぬ国に逃れてくる人々との間に横たわる、理不尽ともいえるギャップ。それは純粋に大きなショックであった。難民がかわいそうだ、と思うより、何かがおかしいと思った。何がおかしいのか、それを知りたいと思った。そして今だにそれは私にとって一番の疑問である。

 「難民」とは、1951年ジュネーヴ難民条約によれば、「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるというおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者…」である。経済的な困苦のみで自国を逃れるいわゆる「経済難民」や地震等の自然災害の被災者などは、国際法や国連の定義では厳密には「難民」には当てはまらない。つまり、たまたまある国に生まれたために、人間の最も基本的な権利(それはしばしば「生きる権利」である)を保障されないばかりか、国家によって奪われる恐れのある人々である。ちなみに、英語には「難民」と「亡命者」の区別はなく、いずれも "refugee(s)"である。
 附設高校を卒業してしばしの浪人生活を経た後、四年間の大学生活を東京ですごしたが、法学部(公法専攻)に進んだため自分の関心のある国際関係論や国際法といった科目ばかりに集中することもできず、かといってこれといった自主的な勉強や活動もしなかったので、いざ卒業というときになってはたと困った。四年生の初夏、就職活動の最終面接をいくつか受けながら、やはりこのままでは何かが未消化のまま残ってしまう、その後どうなるかわからないけど、とにかくもう少し自分の関心に的を絞って勉強したい、と思った。七月の暑い日に、スーツの下に汗を感じながら、某企業の本社に、大学院に進学するから、と、内定辞退のために謝りに行った、気まずい思いを今も昨日のことのように覚えている。もう顔見知りになっていた採用担当の方に思いもよらぬ激励の言葉を頂いてその企業を後にしたとき、もやもやしていたものが吹っ切れた気がした。
 結局はイギリスの大学院に留学したが、国外の大学へ行くことは私にとって必然ではなかった。とりあえず修士課程まで、という計画の下に、国際関係論の分野で、難民問題に関連する勉強ができ、講義だけでなく自分の関心に沿った研究ができるところであれば何処でもよかった。最後まで迷ったが、平和研究の研究所を持ち、論文・小論文を重視するランカスター大学で二年間勉強できたことは、結果的には大変プラスになった。
 ランカスターはイギリス北西部に位置する小都市で、「ばら戦争」のランカシャー朝の拠点となった古都である。その古城をはじめ、歩いて一周できる街のいたるところに英国の歴史を感じることができる。大学のある丘からは遠くに大西洋が、夕方にはきらきらと光って見える。牛や羊の牧場に囲まれたキャンパスには、風向きによっては、「良い香り」が漂ってきたりする。大都市とは違った落ち着きを持つ場所である。そんな田舎の大学ではあるが、私の属した政治・国際関係専攻大学院には、イギリス国内からだけでなく文字どおり世界各国からの学生が集まっていた。クロアチアでユーゴ内戦の地獄を見たジャーナリストのイゴール氏。マレーシアの軍人ハリッド氏、タンザニアのエリート官僚ムバルク氏、等々。皆今でも手紙や電子メールで近況の報告をし合う「戦友」である。
 彼らを「戦友」と呼べるほど、東京での大学生活と違い、ランカスターでの大学院生活は小論文、論文、プレゼンテーションや試験に追われるハードなものだったが、自分の中の満ち足りないテーマを追求するための、目的を持った勉強だったので、苦にはならなかった。むしろ、勉強を初めて「楽しい」と思った。もちろん、これには他にも様々な要因がある。良い指導教官に巡り合えたことも大きかった。勉強だけでなく、いっしょに気晴らしにパブで騒いだり小旅行をしたりする仲間に恵まれたこともある。
 学問的には、二年間の大学院生活を通じて、平和研究という分野から難民問題を見ることができた。平和研究とは、戦争を含めた様々な紛争やその元になる社会問題を複合的に研究する学問で、難民問題について言えば難民発生の本源を見つめるのに適した社会科学である。日本では「平和」という言葉に対するイデオロギー的な抵抗感もあってか、あまり発達していないが、英米ではかなりの大学や研究所で研究が進んでいる。
 大学院で得た視点を通じて、そして今現場からの目を通して感じるのは、 やはりボート・ピープルの存在をを初めて知った時に感じた、「なにかおかしい」というあの思いである。 人間が作り上げた国家というシステムが、そしてそれを支える民族やイデオロギーといった虚構が、人間そのものよりも優先してその基本的な権利まで、ときには命まで、奪っている。やや大上段に構えて言えば、国家とは何か、人間とは、という根源的な疑問であろうか。それらを将来もっと学問的に追求したいという気持ちも持っている。一方で、そんな理論や研究がどうであれその最前線で犠牲になっている難民と直に接することのできる仕事に今充実感を感じているのも事実である。彼らから学ぶこともまた、多い。
 さて、最後に一言、語学について。私はいまだに英語には苦労しているのであまり良いアドヴァイスはできないが、言葉は使う必要性があることが上達するポイントだと思う。高校生までの英語は、大学受験という「必要性」があるが(高校英語をしっかりマスターしておくことは大事だと思う)、大学進学後には必要性が無くなり語学力も低下することが多いという。それは自然なことだし、「国際化時代」だからといって目的や興味も無いのに誰でも英語力を高めようというのはむしろおかしいと思う。私の場合、まず関心のある学問分野の性質上、英語は(留学をしていなくても)本や論文を読むために重要だった(国際関係論等はまだ欧米の学者がリードしている)。留学中は勉強はもとより生活に必要だったし、現在は仕事をするために必要である。英語学の専門家になろうとする人以外は、英語は知識や学問でなく道具だと思ったほうが良い。道具を使う必要の無い人が道具を使えなくとも不思議はない。逆に必要性があれば、麗々しいクィーンズ・イングリッシュや格好良いアメリカン・イングリッシュでなくとも、意志の疎通ができるようになると思う。

 …今日もジャカルタは三十度を超すだろう。夕方にはスコールがあるかもしれない。朝食はまた屋台の揚げバナナを買ってオフィスでとることにしよう。風邪を引いていたイラク人のハッサン君のお父さんからは、回復の連絡があるだろうか。


川内 敏月(かわうち・としつき)

1988年附設高校卒業。1994年東京大学法学部卒業。1996年英国ランカスター大学大学院修士課程(MA)修了(平和研究専攻)。現在、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐ジャカルタ事務所難民保護官(Associate Protection Officer/ Junior Professional Officer)。

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