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オランダに勤務して

25回生  宮原 信孝

 オランダに来て2年3ヶ月になろうとしている。オランダは、私が勤務する4カ所目の国である。4カ所目の勤務と言っても、最初の2カ所、つまり、シリアと英国は、研修目的であったから、実際の大使館での勤務を行う国としては2カ所目である。オランダに来て最初の頃オランダ人やこの地に住む日本人からよく聞かれたことは、アラビア語を専門とする私が、何故、中東ではなく、オランダに勤務するのかということであった。答は簡単で、「日本の外務省のシステムでは、一旦海外に出ると通常二カ所で勤務し、一カ所は先進国、もう一カ所は発展途上国や旧東側諸国などの特勤地となる。私は、前回アラブ首長国連邦という暑い国で勤務したから、今回は先進国を希望し、あてがわれたポストがたまたまオランダであったということである。次にはアラブに行きますよ。」と言う具合に答えたものである。他にも色々な理由をつくることはできるが、とにかく、私がオランダに来たのは、たまたまここにポストがあったからである。
 私の方は、たまたまポストがあってオランダにやってきたわけであるが、オランダの方と言えば、長崎出島時代からもう400年になろうと言う日蘭交流の歴史がある。私は、在オランダ日本国大使館の政務班長として、この日蘭交流400年の重みを背景に仕事をしなければならないわけである。日本から見れば、オランダは、江戸時代、出島を通じて日本がつきあった唯一の欧州の国であり、近くはチューリップと風車の国という印象がある。これに対して、オランダから見れば、日本は、今では大事な通商・貿易相手国であるが、一方で、第二次世界大戦中の敵国であり、旧蘭領東インド、つまり、今のインドネシアにおいて自国民がひどい目に遭わされた国である。昭和天皇が1972年にオランダを訪問された折りには、天皇の車列に卵が投げ入れられた。1991年、海部総理が記念碑に捧げた花輪が近くの池に投げ捨てられた。今では、時も経ち、一般のオランダ国民の間では次第次第に後者の印象は薄れてきてはいるし、日蘭関係全体を見れば極めて良い関係であるが、旧蘭領東インドで日本軍占領下で収容所に収監された経験を持つ軍人・民間人が、中心となって、日本政府に個人賠償を求め、東京地方裁判所に訴えを起こしている。また、月に一度、私が働く日本大使館の前でデモを行っている。私が、オランダで政務班長として最も注意して取り組まねばならない問題は、これら旧蘭領東インド出身オランダ人を巡る問題、つまり、個人賠償の問題、戦争被害の認知、慰安婦問題などであった。
 戦争で被害を受けた人は、心身に傷を負っている。それは、私も知識として知っていた。また、祖母や父母から、或いは、高校時代、草野先生や甲斐田先生から戦争の話を聞いたこともある。更に、戦後50周年の時期には、軍備管理軍縮課で働いていたので、広島や長崎の被爆者の方とも話をしたこともある。外国人では、アラブ勤務や中近東第一課時代、自ら戦争や闘争に参加したイラン人、イスラエル人、シリア人、パレスチナ人にも会ったことはある。しかし、日本軍に被害を受けたという外国人には会ったことはなかった。オランダは350年間インドネシアを植民地として支配してきた。それが、第二次世界大戦で日本軍が進駐し、支配者であったオランダ人を収容所に収監した。戦後は、インドネシアの独立の気運が盛り上がり、1949年には、独立が達成され、多くのオランダ人は本国に帰国した。「日本軍は、占領中、オランダ人に酷いことをしたかもしれないが、オランダ人も350年間インドネシアで現地のインドネシア人を支配し、甘い汁を吸ってきたのではないか。日本は、戦後オランダとの間で協定を結んで補償を行っている。今更、日本に対し個人補償を求めるというのは、オランダ人は自らの過去を反省していないのではないか。」という人もいる。しかし、実際に戦争で心身に傷を負った人を前にして、私には、そんなことは言えない。心身の傷というのは極めて個人的なものである。何故、それまで幸せに暮らしていた無名の個人が、あるいは、たまたま旧蘭領東インドのオランダ人の家庭に生まれた一人の個人が、一生負って行かねばならない傷を受けねばならないのか。幼少期に収容所で生活したオランダ人が、50才、60才になって突然心が不安定となり仕事も手につかない状況で、カウンセリングを受けたところ、原因は幼少期の収容所の生活にあったと判明するような症例は数多い。ある人は、生まれたのが日本軍が進駐した数日前で、物心ついたのは、母親と一緒に入れられた収容所、日本兵に殴られる母親、隣のベッドで死んでいく同胞というのが最初の記憶であるという。軍人の場合は、「戦場に架ける橋」や「戦場のメリークリスマス」という映画をごらんになった方は、その扱われ方の一端を垣間見ることができる。泰面鉄道や、チャンギ空港の建設、炭坑労働などに強制従事させられ、食料・医療も十分でなく、自らは痩せこけていき、周りでは多くの同胞が病で或いは栄養失調で或いは処刑により死んでいく、というような経験を持っている。知識でしか戦争について知らない私がこのような人たちとどうやって話せばよいのか。
 私が、96年1月にオランダに着任した際の状況は、次の通りであった。旧蘭領東インド出身のオランダ人は、二度傷を負っている。一度は第二次世界大戦中日本のインドネシア占領によって。二度目は、第二次世界大戦後、インドネシアが独立し、オランダ本国に帰国した際、欧州戦線で苦難を経験した本国のオランダ人に無視されることによって。「オランダ人は皆欧州で苦しい思いをしたんだ。旧蘭領東インドのオランダ人も苦労したかもしれないが、戦争前は植民地でいい思いをしてきたんだろう。」と言うわけである。戦後数十年立って、やっと、オランダ政府も、彼らの苦しみを制度上、行事上認知した。そのような中で、敵対国であった、自分達に苦しみを与え、楽しかるべき人生に傷を付けた日本の態度はどうか。アメリカ政府は、第二次世界大戦中収容所に収監された日系人に対し謝罪し、国家賠償を行ったが、世界で第二の富裕な国となった日本は何をしているのか。日本政府は、我々の被害を認知し、戦争被害者個人に国家賠償すべきである。と言う気持ちを旧蘭領東インド出身のオランダ人が持つようになった。この結果、対日道義的債務基金が組織され、前述したように東京地方裁判所に訴えを起こし、かつ、94年12月以来、毎月大使館前でデモを行ってきていた。これに対して、日本政府の方は、1951年のサンフランシスコ平和条約及び1956年の吉田・スティッカー協定(日蘭議定書)により、法的に日蘭間の賠償問題は解決したという立場である。これら条約・協定により日本政府は、オランダ政府に対して国際赤十字を通じた支援金及び1000万ドルの政府間の補償金を支払った。しかし、戦後50年を節目として、日本政府として総理談話の形で、第二次世界大戦中の日本軍による被害の惹起について、「多大の損害と苦痛を与えた」ことを認め、「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」した。また、関係諸国とのこの傷ついた関係を癒し、未来に向けて堅固な友好関係を構築するために平和友好交流計画を開始した。オランダでは、総理談話を背景にしつつ、戦争被害者の話に耳を傾ける、対話を行う、デモの代表者と日本大使が直接会って話をする、という対応をとるようになっていた。
 私は、これらの対応の準備・実施を行わなければならない。着任して2、3日後には最初のデモへの対応を行わなければならなかった。私の役割は、デモの代表者の送迎及び大使との会見への同席である。デモ隊は100人弱であるが、柵の外で、プラカードや横断幕、戦争中の写真などを掲げ、私を睨み付けている。最初の半年は、デモの代表者をゲートまで出迎えに行くのが、苦痛であり、デモの日は朝から何やら胃が痛いと感じた。私が、1月に赴任し、3月には今の池田大使が赴任された。池田大使と話し合ったのは、戦争被害者の話に耳を傾けるというのは、いつでもその用意はあるが、それだけでは、しばらくすれば話もつきてしまう、ということである。何が大事なのか。条約を結んで法的に国と国の関係を処理し、かつオランダ政府もこれに異議を唱えていない以上、日本政府の立場として、賠償の問題はあくまでも解決済みである。しかし、戦争被害者の心の傷は癒えていない。歴史を作り直すことはできないかもしれないが、それを癒すための努力はできるのではないか。池田大使も私も、デモの機会以外に戦争被害者に接触し、話を聞き、関係書類を読んだ。旧蘭領東インド出身・オランダ人にとって最も重要なことは、自らの戦争被害が認知され、自らの人生が意味あるものであったと認知されるということだとされる。我々が、言葉と行動で、彼らの戦争被害を認知することができれば、彼らの心の傷を癒し、ひいては傷ついた日蘭400年の関係を癒すことができるのではないか。他方で、戦争被害者にも、今の日本及び日本人を理解してもらえれば、心の癒しに役立つのではないか。そのようなことを池田大使と話し合いながら、幾つかの提案を行うことにした。
 一つは、池田大使や私が着任する以前に、佐藤前大使が提案し戦争被害関係者から歓迎されていたことであるが、戦争被害者の戦争中の日記や書き付けを日本語に翻訳するということである。オランダ国立戦争資料研究所にこれを委託し、実施に移した。次に、96年夏、前述の対日道義的債務基金の代表者に対し、現在の日本を知って欲しいとして、訪日招待を申し出た。果たして、裁判所に訴えている相手である日本政府の招待に応じてくれるかどうか疑問であったが、日本政府との対話を条件に応じてくれた。5年間で計100人を招待しようと言うものである。96年9月、22名の対日道義的債務基金関係者が、平和友好交流・日蘭架け橋計画の枠組みで訪日した。彼らは、外務政務次官をはじめとする政府関係者と話し合いを持つとともに、オランダとゆかりのある長崎市、郡山市、福岡県水巻町などを訪ね、その地で大きな歓迎を受けた。参加者の中には、日本への恨みは融けたと新聞インタヴューで述べる人もでた。この訪問団を率いたラプレ対日道義的債務基金会長は、日本の友人として訪日したと述べた。この訪問団は今年3月にも組織され、27人が訪日し、各地で暖かいもてなしを受けた。この訪日招待計画については、オランダ国内でも報道され、好意的に迎えられている。更に、96年夏以来、慰安婦問題について日本の道義的責任を果たすため「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」事業をオランダにおいて行うことについて、対日道義的債務基金をはじめとする戦争被害関係者と協議を行ってきた。池田大使より、アジア女性基金事業の趣旨・概要につき、主立った戦争被害関係者に説明していただいた結果、オランダ人元慰安婦の多くを会員に持つ対日道義的債務基金が、アジア女性基金事業の形成について日本大使館との話し合いに応じてくれることになった。私は、日本大使館の代表として、対日道義的債務基金代表者と頻繁に協議し、ほぼ事業の中身につき合意ができ、今後どのように実施するかというところまできた。少なくとも日本大使館と対日道義的債務基金関係者との間では何でも話し合え、かつ、協力してオランダでのいろいろな事業を行うことができるというところまできた。
 2年3ヶ月を振り返ると、何も戦争のことを知らない、たまたま赴任してきた私が、よく戦争被害者との間で問題も起こすことなく、やってくることができたものだという感慨が大きい。個人的には、デモに際しては今でも心は痛むが、登館拒否をしたいと思うことはなくなった。知り合いの戦争被害者に会えば楽しく会話もできる。この理由を考えて見れば、第一に思いつくのは、池田大使の安定した指示・指導である。私は、ある時は、日本政府の立場に固執し、また、ある時には、限りなく戦争被害者に同情してしまうというところがあったと思う。しかし、そのような中で、池田大使は、戦争被害者への思いやりは十分に持ちつつ、自分は日本人と日本政府を代表する大使であり、日本人の考え方一般と政府の指針を常に意識して行動されるとともに、「感情の削減(mitigate emotion)」あるいは「癒しへの努力」という大きな指針を示して下さった。また、大使ご本人が、戦争被害者代表との間で固い友情を結ばれている。しかし、よくよく考えてみると、私が相対したオランダ人戦争被害者の全てが、礼儀正しく、主張はするが、我々の話にも耳を傾けるという態度を示してくれた。このような態度なしには、我々から提案を行い、問題を一緒に考えていくというようなことはなかったであろう。我々の仕事は結局は相手に支えられているわけである。これは、日本への訪問団に最大の歓迎を示し、訪問団参加者の話に耳を傾けて下さった日本各地の一般の市民の方々についても言える。我々が頼んだわけでもないのに、そのような姿勢を示して下さる私の知らない人々が日蘭間の友情を作り上げていってくれている。このオランダにきて学んだこと。一つの仕事は、多くの人の支えがあって初めて成り立つし、うまく行くと言うこと。一方だけに思いやりがあっても仕方がないこと、他方の思いやりによって道が開けること。
1998年3月28日


宮原 信孝(みやはら・のぶたか)

1958年7月20日生まれ
78年4月 東京大学教養学部文科一類入学
80年4月 同大学教養学部教養学科進学
      (教養学科第一人文地理文化)
83年3月 同大学卒業 
86年9月 ロンドン大学SOAS(School of Oriental and
      African Studies)修士課程入学
87年9月 同課程修了・卒業

83年4月 外務省入省・研修所
   8月 中近東第二課
84年7月 シリア・アラブ共和国在勤(アラビア語研修)
86年6月 連合王国(イギリス)在勤(中東研究)
87年6月 アラブ首長国連邦在勤
89年7月 領事移住政策課
91年4月 中近東第一課
94年8月 軍備管理軍縮課
96年1月 オランダ王国在勤

職場では、口髭を生やしたアラビスト(外務省の中でアラビア語と中近東地域を専門とする人)、外務省の役人。家では4人の子供の父親。趣味は歴史と運動系のもの。最近はゴルフ。15年の外務省生活で見聞し、或いは携わった国際的事件等

 ○イラン・イラク戦争(含ペルシャ湾タンカー攻撃)
 ○大韓航空機爆破事件(キム・ヒョンヒ事件)
 ○イラクのクウェイト侵攻、湾岸戦争(含邦人人質)
 ○ペルシャ湾への掃海艇派遣
 ○中東和平(含イスラエル・PLO和解)
 ○核拡散防止条約(NPT)延長問題
 ○究極的核廃絶国連総会決議の採択
 ○化学兵器禁止条約批准
 ○核の使用の違法性についての国際司法裁判所の勧告的意見
 ○中国・フランスの核実験への反対及び核実験即時停止国連総会決議採択
 ○オランダにおける第二次世界大戦に関わる問題(含慰安婦問題)

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