第28回男く祭記念文集 [ 目次 | 前のページ | 次のページ ]

脱妖怪社会

48回生  近藤

 最近妖怪や悪魔等のキャラクターを扱った漫画や小説、映画やTV番組をよく見かけます。ジャンルも様々ですし年齢層も子供向けのものから大人向けのものまで、千差万別です。こういった妖怪を題材とした娯楽作品を見ていると、妖怪が架空の存在としてのキャラクター性をほとんど獲得してしまっていると感じないではいられません。大部分の人間にとって、妖怪は現実の存在としてのリアリティーを完全に失ってしまったのです。もちろん妖怪を現実のものとして捉えている(と思われる)人間もいます。しかしそれは明らかに少数派です。例えば「今日隣から座敷わらしが出ていくのをみた」等という会話はもはや一般には行われていないでしょう。では何が人々に妖怪の実在性を信じ込ませたのでしょうか。それは明確です。近年の自然科学の発展が、妖怪を空想の次元へと押しやったのです。それによって今、妖怪は姿を消しつつあるのです。
 そもそも妖怪というのは、いったいどのようにして生まれてきたのでしょうか。それは大きく二つに分けられるようです。
 一つは、何らかの現象、特に人間の理解を超える事象を理解するための説明体系としての妖怪です。例えば子供が水に溺れただとか、突如として、切り傷を負っただとか、又は夜中に不可解な炎をみただとか、それらは妖怪の仕業だったということで説明されたのです。大方の自然現象もそうでした。もっとも、半ば神格化されたものではありましたが。
 もう一つは、形無き概念の器としての妖怪です。死者の無念のような、ある種のイメージを妖怪という形で定着させたのです。
 もちろんこれ以外にも考えられますが、妖怪の多くは、この二つの要素が、時には混在しながら創り上げられて来たようです。
 科学が妖怪を非存在と定義するのは、人間とかけ離れた異形の存在を否定する事に因るのです。妖怪が、物理学的、生物学的にあり得ないということが、妖怪否定の最大の理由なのです。従って前者の妖怪においては別の説明体系として科学に差し替えられます。水に足を取られただとか、真空状態が発生しただとか、ただの妄想だとかです。後者の妖怪においては、そもそも形はないわけですから、人間の意識の中にしか存在しない。現代科学の観点から見れば、それは存在しない、ということです。その代わりにいろいろな用語等で概念を説明します。それを妖怪と呼ぶか呼ばないかの違いしか無いのです。
 科学というのは、世界を説明する理論です。不明な点を科学で説明しようとしているわけですから、妖怪という別種の理論の居場所は無いのです。
 こう考えてみると現在実在としての妖怪が消えていることも、極自然のことに感じられます。現代人は科学という説明体系で世界を納得しようとしているのです。同様に、他の怪奇現象、現代科学の外にある事象も否定されるはずです。
 しかし、本当にそうでしょうか。もちろん妖怪が消えている筋道としては問題は無いようですが、他の超現象については、一概には言えないようです。
 例えば、現在多発している新興宗教などもそうではないでしょうか。「オウム」事件にもあるように、科学に近い位置にいる人間がいるにもかかわらず、多くの信者が存在するというのはどういうことなのでしょうか。
 それには、妖怪と宗教との違いを考えてみる必要があるでしょう。妖怪が否定されるのに反して、宗教における奇跡や神の存在が肯定されるとしたら、その「違い」に起因する筈だからです。妖怪については先程見ましたが、宗教的奇跡というのはどういうものなのでしょうか。
 それは、人々を救う存在としての「神」が起こした超常現象といえるでしょう。端的な救済の顕れとしての超自然体験です。
 結論としては、両者の違いというのは、捉え方、受け取り方の違いなのでしょう。同じ理解不能な現象を体験した時に、それを妖怪と取るか、奇跡と取るか、もしくはそれを否定するかというのは、その人次第だということです。そのときに、現在では否定の方に比重が傾いていますが、妖怪よりは奇跡と取る人のほうが多いのです。そして、その理由というのは、イメージとして、妖怪はネガティブで、奇跡はその逆に思えるからなのではないでしょうか。強調して言えば、人々は奇跡と言える何かを信じたがっているのではないでしょうか。
 社会というのは一つの檻です。外敵から身を守ってくれるけれども、外に出ることも出来ない。そんな閉塞感の中で生きる人々が信じようとするのは、常に宗教であり、自らをそこから救い出してくれる何かなのです。現代人の持つ潜在的な不安が、妖怪を排他し、奇跡を容認します。些細なことでも神秘に結びつけ、偶然を必然へと変化させ、常に何かにしがみついて生きていこうとしているのです。
 高校生らはこれから大学受験に向けて進んで行きます。それはぶら下がるための存在を現実に求めるということです。閉塞感の中にありながら、又新たな檻を造り出そうとしているのです。この撞着が歪みを造り出していくとしたら、その先に生まれてくる真科学社会というのは大変興味深いものになるでしょう。


近藤 健司(こんどう・けんじ)

現高校2年。

第28回男く祭記念文集 [ 目次 | 前のページ | 次のページ ]

Copyright (c) 1998, 近藤, 第28回男く祭記念文集制作委員会, All rights reserved.