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情報化と外国語教育

2回生  樋口 忠治

1 外国語教育の意義
 明治10年にわが国ではじめての大学、東京大学が設けられた頃はその前段階として予備門というものがあった。予備門とはその名のとおり、大学教育をうけるための備的な教育を施す学校という意味である。すなわち後の(旧制)高等学校の役割にあたるもので、新制大学における教養部にあたる。当時は、大学のみならず、高等中学校などでも物理、数学などの教科書は外国語で書かれたものをそのまま使っていたから、外国語の力がなくてはそもそも授業についていけなかったのである。
 夏目漱石の書いたものによると、当時の予備門などでは教科書も外国語のものが多く、彼よりも少し前になると試験の答案さえ英語などで書いたものだという。このような状況が後に改められて、その結果学生の外国語の力が低下したといわれることに対して漱石は、これは当然の結果であると言っている。すなわち、大学をはじめ学校教育を外国語(英語など)で行えば否応なく外国語の能力は向上するであろう。外国人と対等に議論もできる。しかし、それでは日本というアイデンティティを持った独立した国家は存在し続けることができるであろうか。それでは外国の植民地に等しいことになるのではないか。従って、外国語の力が低下したといわれてもやむを得ないのだ、というのが彼の見解である。誤解されないように付け加えると、旧制の高等学校における外国語教育は今日の大学における外国語の授業時間数とは比較にならないほど多かった。
 明治17年、当時の文部省は東京大学に対して自今授業は邦語で行うべしという通達を出している。すなはち、大学での授業は外国人教師によるものはもちろんのこと外国語で行われるものが多かったことがわかる。このような状況では大学に入学するためには相当の外国語の理解力がなければならなかったのは言うまでもない。時代が替わって、我が国の大学における授業が日本語で行われることが普通である今でも、大学での授業の多くが外国での研究を絶えず参考にし、学生に対しても関心を持たせる必要がある以上、学生に対して外国語の理解力が求められることは当然である。
 しかし現在では授業時間数が少ない上に、従来文献を読んで理解する能力が主として求められていたのとは違い、言語能力のすべて、すなわち読み、書き、話し、聞く能力のすべてが求められている。研究者は現在では頻繁に外国に出かけ、国際的な学会などに出席して議論に加わらなくてはならないから、これは切実な要求というべきであろう。しかし、このような外国語の能力を大学における専門教育の前の段階までに修得させるということが可能であろうか。もし国際的な場での討論などに加わることが必要であると考えるならば、そうした外国語の能力は専門教育の場で身につけさせるべきではないか。専門的な用語の使い方は専門的な授業の場でなければ分からない。

2 教養科目としての外国語
 大学における基礎教育の一つとしての外国語教育に求められているものに一般教養としての側面があることが最近過小評価されている。近年、わが国の国立大学から教養部というものが姿を消した。もともと第二次世界大戦終了(いわゆる敗戦)前までのわが国の学校制度は首尾一貫していて、小学校、中学校、高等学校、大学というつながりを持っていた。この制度が終戦後(昭和25年)に、高等学校の一部を大学に分離して、大学の一部に教養課程を組み込むという形にした。その結果、大学という専門教育を行うところにそのための準備教育を行うための段階までもいれるという奇妙な制度になってしまったのである。
 専門教育というのはあくまでも専門とするところを深く追求し、教育するところであり、これに対して、教養教育は広く全般的な人格の形成を行う場であって、狭い一分野のみの教育を行うべきところではない。このようなまったく性格の異なる教育の場は本来別々にすべきところを継ぎ足したところに悲劇が始まったのである。しかし、今はこのような状況において可能な限りの努力をするしかないという観点から考えていくことにしたい。

3 グローバルな情報化社会


 平成5年までにわが国の国立大学の基盤整備が行われた。すなわち学内LANの整備である。これは欧米に比べて約10年は遅れているということに気がついたために大慌てで手を打ったわけであるが、遅れていたのはインフラだけではない。情報化にはそれを管理運営する人も必要であり、利用する人の教育も教育する人も必要である。情報化に必要なこうした環境整備は国の政策としてほとんど手が打たれていないといっていい。それは、情報化ということの意味が政策を立案する立場の人間によく理解できていないということと、そこへ提案をする立場の人間もよく理解をしていないためである。
 現在、インターネットという名称で呼ばれている国際的な情報通信のネットワークとその利用技術の上に成り立っているグローバルな情報の流通は時々刻々と拡大し、その情報は増大している。この状況を単に面白いとか便利な現象などというレベルで捉えているとしたら、それは皮相な捉えかたであり、むしろ人類史上の一大事件と見なくてはならない。これに対して国も大学も本格的に取り組む体制を取るべきである。しかし実状はどうであろうか。それぞれの部署で然るべくやるべし、と言う程度の取り組みをしているに過ぎない。これでは国際的ということをお題目のように唱えているのがむなしく聞こえる。
 なぜならこのインターネットほど大学が国際的に活動するのに適した道は他にないからである。現実の大学の位置がどこにあろうと、それはネットワーク上ではあまり意味はないから、日本という世界の中でローカルな位置にある国、そしてさらにその中でも九州というローカルなところに位置している九州大学もこのような情報通信の世界をフルに活用すれば将来世界の中心的な位置を占めることも不可能ではない。この事にどれだけ早く気づくかが大学の将来を決めることになるはずである。
例えば、現在でもわれわれは世界各地の3000以上の大学のホームページにつないで、それらの大学の状況を知ることができる。もちろん、接続可能なのは大学だけではない。夥しい数の情報発信地が20世紀の現在すでに利用可能な状態にある。これがまもなく来る21世紀にはどれだけ拡大し、増大していくであろうかを考えると、その規模に圧倒されるのである。このような情報の量の増大と質の向上が続いていくと人類の社会全体が大きな変質を余儀なくされることになるのであろうし、われわれの教育研究の世界も大きく変わらざるをえなくなると考えられる。
 こうした情報ネットワークを通じて、例えばアメリカの大学の一つMITに行ってみよう。そのホームページは次のようになっている。ここから次々にそれぞれの項目の内部に入っていくわけである。左側の項目に対する内容の概略が右側に示されている。

URL http://web.mit.edu/
spotlights - December Research Digest
MIT United Way Year-End Campign
news - events and research summaries
academics - admissions, schools, courses
research - labs, centers, and programs
administration - offices and programs
resources - services, about mit, computing
groups - communities of people
maps - how to get around the institute
search - find people and pages
home pages - people in the MIT communitiy

 これがMITのホームページであるが、ここから目的の項目を選び、そこから下へと辿っていくことにより最終的な情報データに到達する。これらの全てをここで紹介することは不可能であるから、読者は最初に示したURLによって自分でアクセスされたい。

4 情報化時代の外国語教育
 こうした情報の受信と発信とが地球的な規模で現在拡大充実しつつあることを考えると、将来の社会を担う学生の基礎教育としてこのような世界的な規模の情報の取得と情報の提供が如何に必要かが判ると思う。もちろん、上記のMITの例を見てもその意味が理解できなければ何の役にも立たないが、入学試験に英語を課しているのはこのようなテキストの意味が理解できるかどうかを試しているわけであり、大学における外国語教育はその理解を十分にならしめるために役立つはずなのである。外国語は英語だけでは不十分である。フランス、ドイツ、その他さまざまな外国語がある。しかし一人の人間が数多くの外国語を修得することは現実的ではない。英語およびもう一つの外国語を必要に応じて修得すればよいであろう。
 グローバルな情報ネットワークの実現が現実のものとなり、また現実のものとなろうとしている現在、われわれが直面しているのは、このような情報化社会で人間はどのような社会生活を営んでいくかということである。そのような社会において人々を導いていくリーダーは他に先駆けて情報化社会の何たるかを理解していなければならない。このような意味でも九州大学では情報教育を進める必要がある。しかし現在はそのような観点からの教育の体制は作られていない。
 外国語教育は上記のような世界的な情報化社会に学生を導いていくのにもっとも適した位置にあると考えられる。かつては文学や社会科学の分野に学生の目を向けることによってその教養を高め、また知的好奇心を起こさせてきたが、現在の学生はそのような方法に満足していない。彼らはより現代的な切実な問題に取り組むことに意義を見いだそうとしている。外国語教育にこうした情報化社会への入門を取り込み、学生に対してそうした世界への目を開かせることこそ私たち外国語教育に携わるものの務めではあるまいか。
そうした教育を実地するためには実験的な設備・施設が必要であることは言うまでもない。幸い教育設備としての教室は整備されてきたが、さまざまな試みをするためには実験のための設備が必要であり、研究も必要となる。こうした状況を考えると、今後の外国語の教育と研究は、設備を備えた実験的な性格を多分に持たなければならないと考えざるをえない。


樋口 忠治(ひぐち・ただはる)

九州大学文学部教授

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