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刑事裁判と経済性

32回生  葉玉 匡美

一 裁判の壊死
 私が検事になって5年経った。検事というのは、簡単に言えば、犯罪の捜査を行い、有罪と判断したときには犯罪者を起訴し、裁判官に対し被告人(裁判を受ける人)の罪を証明していく公務員である。
 犯罪捜査というと警察の仕事というイメージがあるが、日本の警察には起訴する権限はなく、起訴及び裁判は、極めて例外的な場合を除いて、ほぼ100パーセントを検察官が行っている。
 検事の世界で経験5年というのは、まだまだ洟垂れ小僧という感がなくもないが、刑事裁判を何十回、何百回も経験し、それなりに一人前の取り扱いを受けるようになる年頃でもある。
 そんな私が、最近とみに感じるのは、刑事裁判の滅びの予感である。
 刑事裁判は、経済性に対する無関心によって近未来に壊死してしまうのではないだろうか。

二 刑事裁判の非効率性
1 とにかく刑事裁判は、時間と金を食いまくる。
 1回の刑事裁判にかかるコストは、ケースバイケースだろうが、裁判官、検察官、国選弁護人等関係者の人件費、証人の旅費日当、裁判所の一般管理費等を考えれば、1回の法廷で100万円以上が消えることは間違いない。
 そのうち、国選弁護人の弁護料や証人の旅費日当等は、法律上、有罪になった被告人の負担になるのが原則とされているものの、実際には、裁判官が訴訟費用の負担を免除することが多く、刑事裁判のコストは、ほぼ100パーセント国費、つまり、元をたどれば、国民の税金で賄っていることになる。
2 被告人が、全て事実を認めている場合には、1,2回の法廷で判決が出るので、コストもそれほどではないが、被告人が罪を否認し、証拠を争えば、通常、最低5,6回の法廷が開かれ、強く争えば争うほど、コストが嵩んでいくことになる。
3 もちろん、刑事裁判の目的は、「真実の発見」と「手続保障」にあり、その実現のためにある程度のコストがかかることはやむをえない。
 真実発見とは、過去にあった事実を証拠から明らかにすることであり、「神による裁判ではなく、証拠による裁判」という近代法の基本的枠組を維持するためには、証拠の収集と吟味に金と時間がかかるのはやむをえない。
 また、手続保障とは、被告人に検察官の主張や証拠を理解させ、弁解と反証の機会を与えることだが、被告人の言うことが合理的で 無罪になる可能性もあるというのなら、弁解と反証のために相当の手間隙をかけても仕方がないとも思う。
4 しかし、裁判は、法律家という希少で高価な素材を使って行う有限の資源であり、資源の無駄遣いは許されない。
 実際、否認事件のほとんどは、被告人がとるに足らない不合理な弁解をしているものばかりであり、そのため、否認しても無罪になる確率は、0・1パーセントもない。
 ところが、法律家は、刑事裁判が国民の貴重な財産の一部を使わせてもらって実現されていることを忘れがちであり、絶対に認められない被告人の不合理な弁解を一つ一つ検討していくような無駄な審理を重ねることが度々ある。
 そのコストを被告人が負担するなら、私も文句は言わないが、数百万円以上のコストをかけて無駄な審理をしておいて、最後に「費用は、全部税金でお願いします」というのでは、私は税金を払っているのが悲しくなってしまう。
5 その最たる例が地下鉄サリン事件の裁判だろう。
 地下鉄サリン事件で国選弁護団は、数千人の被害者の調書を不採用にした。
 弁護団は、それを当然のことだと考えていたようだが、数千人の被害者の証人尋問をやるためには、それだけでざっと1000日以上の開廷が必要となり、1日100万円としても10億円以上の税金が使われることになるのである。国民はそれを許すだろうか。少なくとも、私は嫌だ。
6 非効率的な裁判によって犠牲になるのは、金ばかりではない。
 ロッキード事件を始め、被告人が長い裁判の途中で死亡する例は多い。
 裁判に時間がかかれば、被告人の死亡により、処罰されるべき者が処罰を免れることになりかねない。
 また、裁判の長期化により、証人の記憶は薄れ、証拠が散逸し、真実と異なる判決が導かれる可能性も高くなる。
 時間の経過が有罪の方向に傾くにせよ、無罪の方向に傾くにせよ、刑事裁判の理想に反することになるのは疑いない。

三 刑事裁判の効率化を阻むもの
1 このように非効率的な裁判は、百害あって一利なしだが、その非効率性の原因となっているのは被告人の人権保障であり、それだけにこの病は性質が悪い。
 刑事裁判制度は、日本語が理解できる常識人を基準に整えられており、被告人には、多彩な権利保護手段が与えられている。
 だから、被告人が常識を超えてその権利を濫用しはじめた場合や、日本語が理解できない外国人が被告人となった場合には、とたんに訴訟は渋滞に陥ってしまう。
 また、刑事裁判は、一人の犯人が一人の被害者に被害を与えたという事実を前提に形作られているために、テロのように多数の犯人による多数の被害者への攻撃が問題となったときには、通常の審理手段ではまともに対応できなくなってしまう。
2 このような非効率的な刑事裁判制度が、今まで生き延びてこられたのは
 (一)日本には「悪いことをしたら素直に謝るべきだ」という倫理観があった。
 (二)裁判の長期化は、一般的には被告人に不利なので、被告人側に訴訟進行に協力しようという意欲があった。
 (三)法曹三者に深い信頼関係が築かれており、 被告人がどんな非常識な弁解をしていても、裁判官、検察官、弁護人がうまく争点を整理し、不合理な弁解は無視して、事件の本質的部分を中心に裁判をしていたからだったと思う。
3 しかし、その前提は社会の変化によって、全て崩れつつある。
 (一)倫理が疎んじられ、悪いことと良いことの区別ができない者や嘘を言ってごまかすのを全く悪いと感じない者が増えてきたし、日本の倫理観が通じない外国人による犯罪が増えている。
 (二)テロリスト、凶悪犯罪者、組織的な麻薬密売組織、窃盗団は、真相解明が遅れれば遅れるほど自分の利益になるので、訴訟の進行に協力しようとしない。
 (三)さらに、法曹人口が急激に増えているため、依頼者の言いなりになり、権限を乱用する弁護人が増えてくる可能性があり、そうなれば、法曹三者の信頼関係も失われることになるだろう。
 社会の変化が、司法の根幹を虫食みつつあるのである。

四 司法に求められるもの
1 それにもかかわらず、法律家には危機感がない。平和ボケしているように見える。
 かつて、いわゆる安保闘争が盛んだったころ、過激派の構成員や弁護人は、刑事裁判を裁判闘争と呼び、どんな些細なことでも徹底的に争い、その結果、司法が危機的状況に陥ったことがあった。
 当時の法律家は、法改正と厳しい法運用でその危機を乗り切ったが、時代が移るにつれ、司法の世界から危機感が失われ、被告人のワガママに少しばかりつきあってあげる余裕が出てきた。
 それが、司法の世界から厳しさが失われる原因になっているのではないか。
2 だが、社会の変化により新たな危機の芽が司法の随所にばら蒔かれている。
 捜査員や裁判所は絶対数が少なく、大きな社会変化に柔軟な対応ができるほどの余裕はない(例えば、地下鉄サリン事件では、証人尋問にかかる莫大な時間のことを考え、数千人分の被害者に対する殺人未遂の起訴を取り消さざるをえなくなった)。
 このまま何の方策も講じなければ、否認事件の増加が、裁判の渋滞を巻き起こすようになる日はそう遠いことではない。
3 正義の実現のためには裁判にいくら金と時間がかかろうが仕方がないと真面目に語る法曹も多い。
 しかし、私は、現在、刑事裁判において生じている莫大な金と時間のロスが、一旦社会問題化すれば、法改正による被告人の権利の後退、裁判予算の削減等に繋がるのは間違いないと思うし、もしそうなれば、刑事裁判は理想から遠く離れていってしまう。
 それだけに、法律家の裁判コストに対する無関心は空恐ろしいものを感じるのである。
4 無駄な審理をなくすためには、「裁判長が無駄な証拠調べを適切に排除する」「被告人に訴訟費用を負担させる」「被告人が不合理な弁解をしている場合には、酌量減刑も行わないし、執行猶予にもしない」という刑事裁判の原則に立ちかえる必要があるだろう。
 そして何よりも大切なことは、法曹三者が「司法制度は国民の税負担により支えられている」という事実を胸に刻み込み、その権限行使にあたっては、司法全体の信頼を損なうような権限濫用を厳に慎むことである。
 司法は正義の実現手段であるが、正義と金は別次元の問題ではなく、金があってこそ、はじめて正義が実現できるのである。


葉玉 匡美(はだま・まさみ)

昭和59年 東京大学文科T類入学。
昭和61年 法学部進学。
昭和63年 司法試験合格。
平成元年  東京大学法学部卒業。
      LEC東京リーガルマインド講師。
平成2年  司法研修所入所。
平成4年  検察官任官。
現在    熊本地方検察庁検事。

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