第28回男く祭記念文集 [ 目次 | 前のページ | 次のページ ]

「受信型国家日本」という幻想

36回生  安部 圭介

はじめに: 外国法研究の楽しみ
高校時代1番好きだった科目は英語だった。今にして思えば、1度も海外に住んだ経験のなかった当時のレ
ヴェルで「英語が得意だった」と称するのははばかられるのだが、高校2年生の頃までは、外国語学部英米語学科や文学部英米文学科といった進路を考えていた時期もあったくらいである。その後、何がきっかけで文科T類を受験したのかはよく覚えていない。しかし、いざ進学してみて気がついたのは、法学部にも語学を生かせる分野ないし語学力の必要不可欠な分野は多いということだった。英米法をはじめとする外国法の研究はその最たるものであろう。もともと語学それ自体や文学に対する関心が強かったわけではなく、むしろ時事問題について英語で読むことが楽しかったほうであるから、多様な社会問題を法に従って解決するアメリカ法の世界は自分の波長に合った。
 ところで、わが国の大学の法学部において外国法研究がさかんに行われている理由としては、大きく分けて2つのことが考えられる。これらを外国法研究の2つの意味ないし目的と言ってもよい。その1つは、言うまでもなく、その国の法、ひいてはその国の文化について理解を深めることそれ自体である。たとえば、学問の対象としてアメリカ法に向き合うということは、本来、ありのままのアメリカ法の姿を把握するための試みであって、必ずしもその一部を日本に移植することを目的とするものではない。ノルウェイの結婚式について調査する文化人類学者も、ドイツの教会史を学ぶ宗教学者も、フランス近代音楽を論じる音楽学者も、何も日本に何かを採り入れようと思ってそのような研究をするわけではないのと同様である。東京大学で長年にわたって英米法講座を担当された故田中英夫教授が指摘しておられるように、自国の「役に立つ」ことのみを志向して外国の法制度を表面的に紹介する安直な態度 ―― いわゆる外国法の"つまみ食い" ―― は、その国の歴史的社会的背景を踏まえた正確な理解をさまたげるという点でかえって有害なものとも言えるのである。
 しかし、とは言っても、法学や経済学に代表される社会科学は、人文諸科学とは違って、究極的にはよりよき制度の設計を目指す学問である。ここから、第1の意味と比較すれば副次的ではあるがやはり重要なもう1つの意味が出てくる。すなわち、日本法に何らかの示唆を与えることである。この点のみを目標として外国法を学ぶことは正しい態度とは言えないけれども、注意深く考察を行った上で、他国の法と比較した際に明らかになる日本法の問題点を指摘し、何らかの提言をすることが可能であれば、それにまさる研究成果はない。
 これら2つの意味ないし目的は、研究者にとっては「外国法研究の2つの楽しみ」でもある。何よりもまず、これまで他の学者の調べたことのなかった分野について学び、新しい知識を得るということ自体が楽しいし、「自分はこの点を調べ、このようなことが明らかになりました」と研究会などで報告することもまた1つの大きな喜びである。さらに、外国法と比較して、どうすれば日本法がもっと合理的に機能するようになるかを考えることも、もちろん面白い。かくも楽しき英米法研究の道に進むことになったのは、法学部4年生の時、のちに東京大学法学部初めての女性教授となられた寺尾美子助教授の講義「英米法第1部」に出席したことがきっかけであった。


外から見た日本
 しかし、外国法研究の意味として挙げた2つ目の点に関する限り、考えれば考えるほど日本法の現状に対して「なぜこの国は変わらないのか」という嘆きにも似た疑問が広がり、道のりの圧倒的な遠さを前に「楽しみ」よりも「悲しみ」を感じさせられる場面が少なくないこともまた事実である。このような思いは外国法研究に携わる者のかなり多数が経験するところであって、たとえば寺尾教授は、論文「都市基盤整備費用の公平な負担のあり方」を発表された時、手紙の中で次のように語られた。
「私は、これまでアメリカの土地利用計画法関係の研究を細々と続けて参りましたが、常に私の念頭を離れない疑問がございます。それは、初めての留学から帰国したときに痛感した、『わが国における"衣・食・住"の"住"の貧弱さはなにゆえか?』という疑問です。これに対しては、国土が狭い上に、平地の割合が少ない日本と、広大な領土を持つアメリカを比べることはナンセンスであり、日本は土地が狭いのだからしかたないという単純な、しかし基本的な理解があります。あるいは、東京一極集中が原因であり、土地問題は東京問題であるという理解もあるでしょう。しかしながら、狭い国土や東京への一極集中のみに"住"の貧しさの原因を帰してしまうのは短絡的に過ぎるように思われます。なぜなら、東京を中心とする都市における土地の希少性 ―― これは世界的にも異例なほど高い地価水準にも端的に表れていますが ―― にも拘らず、その有効利用が進んでいないという現状はどう説明されるのかという疑問が残されるからです。」
 寺尾美子教授(当時助手)がハーヴァード大学を卒業して帰国されたのは1980年のことである。それから20年近くが経った。しかもその間、日本は決して有効な政策を推し進める財源もないほど飢えていたわけではない。にもかかわらず、1997年秋、不肖の弟子がアメリカ留学を終えて東京に着いた時まっさきに感じたことは、17年前の寺尾教授の印象そのもの、そのままであった。いやむしろ、都市部における過密化現象を考えれば住環境は一層貧しくなったというのが偽らざる日本の現状ではないだろうか。マンションの賃料が下がったといっても、それはバブル経済の最盛期と比較しての話であって、同じ家賃でアメリカの半分以下の広さの部屋しか借りられない状況には何の変化もない。防災対策や都市景観の問題もきわめて深刻なものがある。アメリカからの帰途、ヨーロッパ10か国(イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェイ)を訪れる機会があったが、それらの国々の小さいながらも美しく手入れされた街並み ―― 特にコペンハーゲン、ストックホルムの両市は感動的であった ―― は、アメリカやカナダのような広々とした開放感とは違うものの、愛らしく印象的だった。帰国してまずしなければならなかったのは部屋探しのために不動産会社を訪ねて回ることであったが、狭い道路に車が渋滞し、お世辞にも美的とは言えない電信柱の乱立する歩道に人と自転車があふれる、まったく計画性の感じられない東京の街を歩きながら、自分はこの日のことを決して忘れることはできないだろうと思わずにはいられなかった。
 そればかりではない。1980年当時は1ドル=228円の陰で目立たなかった内外価格差は今やおおい隠しようもなくなり、"衣"も "食"も異常に高いことは誰の目にも一目瞭然となった。それは取りも直さず、われわれ自身が豊かさを実感できない理由を何よりも雄弁に物語っている。海外で生活した者が自国に戻ってきた時に受ける衝撃を「逆カルチャー・ショック」と呼ぶが、帰国後の数週間、アメリカの暮らしに慣れた自分の目に映った日本の印象はまさに強烈というほかなかった。追いうちをかけるように、共に留学し、時を同じくして帰国した友人から悲痛な電話がかかってきた。職場復帰早々、上司のセクシュアル・ハラスメントに悩まされているというのである。彼女は言った。「アメリカでの配慮あふれる待遇と比べて、何という違いでしょう。」
 アメリカのすべてが素晴らしかったなどと言うつもりは毛頭ないし、もし自分の中にそのような気持ちがあるとすれば、それは過去を美化し、なつかしむ心情に過ぎないだろうと思う。アメリカの治安の悪さはずいぶん誇張されて伝わっている感もあるけれども ―― 蛇足ながら、神戸の連続児童殺傷事件のニュースに接した時、もはや日本も自分がアメリカに旅立った時に信じていたほど安全な国ではなくなったのだと感じさせられたものだが、その後、ナイフを使った凶悪犯罪が多発するにいたって、事態はますます深刻になってきているように思われる ―― 、確かに雰囲気のよくない一角もあれば、一日中ホームレスのたむろする一角もあった。東洋人に偏見を持つ人々もいなかったわけではない。しかしそれにしても、日本という国をもっと暮らしやすく温かみあふれる国にするためには、この身近なはずの隣国から学ぶべきことがまだまだたくさんあるのではないだろうか? そもそもわれわれは、これまでアメリカから謙虚に何かを学ぼうという努力を本当の意味でしてきたと言えるのだろうか?


「受信型国家日本」説
 ところが、世の中にはいろいろな考え方をする人があるもので、日本はもっと他国に対して自己主張する必要があると説く人も決してめずらしいとは言えない。このエッセイでは、こうした主張の当否について読者とともに考えてみたい。もともとこのような考え方は、国内の特定の業界や利益集団の声を代弁して貿易自由化などの外圧に対抗するという保護主義的な性格の強いものであったけれども、1980年代に入って日本経済の成功が目につくようになると ―― 今にして思えば、それははかない「バブル」だったのであるが ―― 、アメリカの時代は終わった、もうアメリカから学ぶものは何もないといった性急な議論がわが国ではかなり幅広く見られるようになった。もとよりこれらは学問的というよりはむしろ自国の成功に対する過剰な自信に根ざしたものだったので、いわゆる知識人と呼ばれる人々がこのような考え方にくみしている例はさほど多くはない。しかし、その重要な例外の1つとして、東京大学で国際法を教えておられる大沼保昭教授の見解を挙げることができる。
 大沼教授は、1992年10月、雑誌「エコノミスト」に「独善の国アメリカと受信型国家ニッポン」と題する文章を発表された。このエッセイは、タイトルが示す通り、自らの価値を他国に押しつけるアメリカとその主張をただ従順に受け入れてきた日本を厳しく批判する内容であったが、大沼教授はまず、議論の前提として、アメリカの豊かな自然環境や低い物価水準を考えれば全体的な生活の質は日本よりまだ高いと言えることを一応認めつつも、「そうした生活の質は、今日、米国社会の多くの者にとって手の届かないものになっている」とし、「80年代の米国はレーガン、ブッシュ両政権の下でひたすら市場経済と競争の原理を強調してきた。所得税の累進率は切り下げられ、社会福祉の予算は切り詰められた。その結果、富める者はますます富み、貧しい者はさらに貧困化した」と指摘される(「ひたすら」かどうかは、後述するように意見の分かれるところであろう)。そして、1979年から81年までアメリカに住んでおられた時の印象と1991年から92年にかけて滞在された印象とを比べ、「10年前にもまして、私は、米国という一見活力に満ち満ちた社会の芯の部分が腐臭を発しつつあるのを感ぜずにはおれなかった」と言い切られたのであった。
 このような立場から大沼教授は、さらに進んで次のように問う。
「米国は普遍性の神話が支配する国である。自己の正義、価値をそのまま世界の正義、価値と信じて行動し、そのための犠牲をいとわない国である。そして、米国がこれまで世界に広めてきた価値はおおむね優れたものだった。民主主義、人権、法の支配、市場経済。旧社会主義圏の崩壊はそれを裏打ちする。しかし、そうした価値を説いてきた国自身の現状、その腐臭は何を物語るのだろう? そうした国が唯一の超大国として世界レベルでもつ規範設定力に、私達は人類の未来を賭けることができるのだろうか?」
 続いて、大沼教授は「自らの価値を他に押しつけ、他者からは学ぼうとしない独善性」をアメリカの「病い」の原因の1つとし、さらに「低廉なガソリンにおぶさった資源浪費型の生活、過剰な弁護士・訴訟に象徴される過度の自己主張と対立主義的な紛争解決方式、外国の文化や言語への理解の欠如」などを取り上げて(ここで再び読者の注意を喚起するとすれば、アメリカにおいて弁護士や訴訟が多いことは事実だが、それが「過剰」かどうかはやはり意見の分かれるところであろう)、「問題は繰り返し指摘されるが、なかなか直らない。世界最善最強の国、米国という神話がいまだに根強く、自らの原理を根本的に疑うことがないからである」との見方を示される。そして、日本がアメリカのよさを必死に学んできたのに対して、アメリカは日本に限らずどの国からも学ぼうとしなかったとし、このことは、日本が19世紀までは中国、以後は西洋を範とする受信型国家であったのと対照をなすと主張される。その結論は、当然ながら次のようなものであった。
「日本は欧米と異なる文化的伝統と風土から、近代文明の行き詰まりを解くいくつかの鍵をもっている。自己主張に対する謙遜、謙譲の美徳。恵まれない自然・人口(ママ)環境から形成された(先進国の生活水準を保持するなかでは比較的)資源節約型の生活様式。政治権力への不信より教育の力への信頼にもとづく社会構成原理。こうした価値は、現在の米国に顕著な欧米中心の近代文明の病理を治癒するうえで重要な意味をもっている。」
 昨年10月に開かれた東京大学国際法研究会でも、大沼教授は「われわれはアメリカを『教育』する必要がある」と発言され、上に紹介したような立場を基本的に維持された。


行き過ぎた一般化を拒む国アメリカ
 しかし、このような議論に対しては、いくつかの重大な疑問がただちに浮かんでくる。
 第1に考えなければならないのは、そもそもあの広大な「アメリカ」という国をひとまとめにして論じることに果たしてどれほどの意味があるのだろうかということである。
 アメリカ合衆国の面積は、ヨーロッパ連合15か国の3倍近くもある。歴史的にも、アメリカが1776年にイギリスから独立した時は、13の植民地がそれぞれ独立の主権国家として独立したのである(1788年に効力を生じた合衆国憲法によって、1つの連邦国家となった)。一体われわれは、仮にフランス人が自国の文化に非常に大きな誇りを持っているという時、「ヨーロッパ人は、ゥvと言うものであろうか。しかもアメリカの場合、フロリダ州やハワイ州のような熱帯地方から北極圏に属する地域もあるアラスカ州まで変化に富んだ自然環境が広がっており、当然、人々のライフスタイルにも大きな違いが見られる。ちなみに、日本の面積はテキサス州の約半分、アラスカ州の4分の1程度に過ぎない。ワシントン・ポスト紙の記者であったジョール・ギャローは、ベストセラーとなった著書「北米9か国」の中で、北アメリカ大陸は、アメリカ、カナダ、メキシコの3か国として見るよりも9つの「国」ととらえたほうが実際の姿に近いと指摘した。たとえば、ヴァンクーヴァーの文化や街の成り立ちは、他のカナダの大都市ではなくむしろシアトルとよく似ている。カリフォルニア州北部からポートランド、シアトル、ヴァンクーヴァー、そしてアラスカ州南部にかけて広がる細長い帯状の「国」をギャローは「エコトピア」と名づけ、雨が多く緑に恵まれ、環境意識の高いこの地域とは対照的に、砂漠の多いカリフォルニア州南部からアリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州にかけての地域は、メキシコとともに「メクスアメリカ」を形成していると見る。乾燥した気候のメクスアメリカは、はるか遠くから水を「輸入」しなければならず、たとえばサンディエゴは山を越えてコロラド川から水を引いている。エコトピアの文化が自然との調和を重視するのに対し、メクスアメリカは自然を征服し、巨大なダムや水路を次々と建設することによって発展してきた。そして、一年中陽光降り注ぐ南カリフォルニアは多くの人々を魅了し、ビヴァリーヒルズに代表される高級邸宅街が成立したのであった。しかし、そこはまたエアコンと車がなければ生活できない土地でもあった。
 大沼教授は「低廉なガソリンにおぶさった資源浪費型の生活」と言うが、"車社会アメリカ"のイメージが全土に当てはまるとはとても思えない。ロスアンジェルスやダラスのように ―― いずれもギャローの分類によれば「メクスアメリカ」に属する都市であるが ―― 自家用車なしでは生活できないと言われる街もあれば、ボストンのように地下鉄やバスのネットワークが整備されていて車の必要性をまったく感じさせない街もある。大まかに見れば、歴史の古い東海岸の街は道が狭く建物も密集しているため、車の運転に適していないのに対して、自動車の出現以降に都市が建設された西部では道路が広々としているという傾向があるかもしれないが、西海岸でもシアトルやポートランドなどでは都心を中心として一定の区域内でバスや路面電車の運賃が無料になっており、公共交通機関を利用した通勤が一般的である。
 また、環境問題への取り組みが早くからなされてきていることもここでぜひ付け加えておきたい。1962年に出版された「沈黙の春」において、世界で初めて殺虫剤DDTが野生動物や人体に及ぼす影響を警告したレイチェル・カーソンはアメリカの生物学者であったし、法的な面でも、アメリカは1969年の「国家環境政策法」によって環境アセスメント(開発事業が自然環境に与える影響を事前に評価すること)を政府に義務づけた初めての国である。ニクソン大統領は1970年に「環境保護庁」を新設し、70年代を「環境の10年」と位置づけるスピーチを行っているが、日本がアメリカにならって環境庁を設けたのはその翌年のことである。
 さらに、アメリカを代表する環境NGOであり、グランド・キャニオンやヨセミテ渓谷を守る運動で知られる「シエラ・クラブ」(1994年現在、会員約53万人)は早くも1892年に設立されているし、現在でもアメリカの環境保護運動が強力であることはよく知られており、会員数500万人を超える「全米野生生物連合」をはじめとして、「グリーンピース・アメリカ」(170万人)、「環境防衛基金」(25万人)など10万人以上の会員を有するNGOが10団体以上もある。弁護士や博士号を持つ科学者を専属職員として雇っているNGOも多い。このような状況は日本の低調な市民運動とはきわめて対照的であり、雑誌"Time"も次のように指摘する。
「もし環境問題に関して前進を阻むものがあるとすれば、それは日本における環境保護運動家と専門家の不在であろう。日本で自然保護団体に所属している人は約1万5000人にすぎず、その多くは野鳥観察家である。また日本には、欧米に見られるような国の政策を監督する環境保護主義者の広範なネットワークも存在していない。」
 アメリカにおける環境意識の高さは、市民の省エネ努力のめざましさにも表れている。1973年から1990年にかけて、アメリカの1人当たり家庭用エネルギー消費は20%も減ったのに対して、日本は逆に60%も増えている。また、小さなことではあるが、日本のエスプレッソ・バーでは、飲み物を持ち帰る際、紙コップに入れられるのに対して、アメリカでは専用カップを持ち歩き、自分のカップにコーヒーを入れてもらう人が多い(なお、シアトルに本店のあるエスプレッソ・バー「スターバックス」は首都圏にいくつかの支店を持っており、自分のカップにコーヒーを入れてもらうことができる)。このような面があるにもかかわらず、アメリカの生活を「資源浪費型」と決めつけるのは"行き過ぎた一般化(oversimplification)"であり、比喩的に言うならば、黒白まだらの乳牛 ―― ホルスタイン種と言うのであろうか ―― を「黒牛」だと主張されているような違和感を覚える。アメリカを「資源浪費型」とし、缶ジュースの自動販売機や割り箸や紙コップのあふれる日本を「資源節約型」と断定することは、ただでさえ高いとは言えない日本の環境意識を低下させ、アメリカ国内にせっかく存在する市民運動との連帯を困難にするおそれがある。
 「過剰な弁護士・訴訟に象徴される過度の自己主張と対立主義的な紛争解決方式」については、なるほど日本やヨーロッパ諸国と比べればどの州でも弁護士や訴訟が多いことは確かであるが、これが一概にマイナスと評価されるべきことかどうかに関しては大いに疑問の余地がある。
 「外国の文化や言語への理解の欠如」も妥当な批判とは思われない。クリントン大統領やスーター最高裁裁判官はオックスフォード大学のローズ奨学金を得てイギリスに留学していたし、アダムズ大統領(2人とも)やケネディ大統領もヨーロッパでの生活経験があった。プリンストン大学総長から政界に転じたウィルソン大統領は比較政治の専門家で、イギリス、フランス、ドイツ、スイスの政治に詳しく、大学ではイギリス史、フランス史の講義も担当していたし、フランス語やドイツ語にも堪能であった。G7の場で英語を話したのは後にも先にも宮沢喜一元首相1人というわが国とは大きな隔たりがある。統計的にも、アメリカの人口2億3000万人のうち約3200万人は、家庭において英語の他にもう1か国語以上話すいわゆるバイリンガルの人々である。また、フルブライト奨学金など留学希望者のための制度も充実している。地域ごとに見ても、多種多様な民族が共存する「人種のるつぼ(melting pot)」としてのアメリカを代表する街ニューヨークは一応別格としても、たとえば、ハーヴァードをはじめとして60校以上の大学が集まるボストン周辺ではフランス語やドイツ語を流暢に話すアメリカ人はむしろありふれた存在であったし、日本や中国の政治や文化を研究テーマとする大学院生にも数多く会った。シカゴ生まれのデーヴ・スペクター氏も、次のように言っている。
「小学校にはあらゆる民族、人種がいた。文字どおり十人十色。エスニック・デーがあって、たとえば『日本の日』には日系の生徒が着物を着て登校し、日本の文化をみんなで学ぶ。子供の頃から異なる民族とのつきあい方を身につけた。」
 まして、日米交流の歴史の長いシアトルでは、日本に何年も住んでいたことのあるアメリカ人など数え切れないほどいた。シアトル時代の友人の1人ブレンダは上智大学の交換留学生だった人だが、東京では茶道と華道の稽古にも通っていたということで、茶の湯の心などはわれわれよりよほどよく知っていたし、何よりもまず、彼女のような美しい日本語を話す日本人に自分は一体これまで何人出会っただろうかと考えさせられたことを覚えている。それほど傑出した人は少ないとしても、日本語のスピーキングにまったく不自由しないアメリカ人は、ワシントン大学で法律を学ぶわずか180人の新入生の中にさえ少なくとも5人いた。また、東京大学でも、客員研究員や研究生などアメリカからの留学生は常に何人もいる。さらに、ハーヴァード、コロンビア、ワシントン、ウィスコンシンの各大学の法学部は「東アジア法研究所」(名称は大学により多少異なる)を置いており、そこで日本法が研究されていることは言うまでもないし、コロンビア、ミシガンの両大学は東京大学法学部と教官の相互派遣の取り決めをしていて、それぞれ3名ずつ、計6名のアメリカ人教授が毎年本郷キャンパスで授業を持っておられる。再びギャローを引用すれば、大きな傾向として、ニューヨークやフィラデルフィアなどの「ファウンドリー」に住む人々はヨーロッパ諸国に関心を寄せ、「エコトピア」の住民はアジアに目を向けているという違いはあるかもしれないが、外国の文化や言語を理解しない国というアメリカ像は、仮に1992年の時点で真実だったとしても、今でもそうであるとは信じがたい。このようなイメージの当てはまる地域がアメリカにもし存在するとすれば、それは他国との接点を持たない内陸部の片田舎だけであろう。
 続いて、治安の悪さに関する議論を考えてみる。大沼教授は、銃砲業界の圧力や自分の身は自分で守るという個人主義的伝統を理由に実効的な銃規制を行わないアメリカを次のように批判する。
「社会を改善するには、自己の既成の文化、行動様式を変えるという犠牲を払わなければならない。個人主義的伝統うんぬんの議論は、結局そうした犠牲を払う用意がないということである。」
 確かに、アメリカの治安の悪さには一定のデイタの裏づけがあり、現状を改善するための十分な努力がなされていないとの指摘は、アメリカに対する上記3つの批判よりは納得できる部分が大きい。銃規制も、もし実施しうるものならそれに越したことはない。しかし、日本がアメリカと同じほど多様な人々をかかえる国家だったとして ―― あるいは、将来そうなったとして ―― 、なお犯罪の抑制を個人主義に優先するものとして扱えるのか、それでもなお比較的安全な国であり続けることができるのかという疑問は残る。また、アメリカのほとんどの都市で日本よりも犯罪発生率が高くなっていることは事実だが、それでもやはり地域差は顕著であり、たとえば、平均的に見ればアメリカの殺人事件発生率は日本の10数倍であるが、人口10万人当たり年間80件以上も殺人事件が起きるニューオーリンズから、30件前後のニューヨーク、シカゴ、ロスアンジェルス、サンフランシスコ、10件台のボストン、ミネアポリス、シアトル、ポートランド、そして主要都市では最低のホノルルの4件まで、実に大きな開きがある。アメリカに行く時、友人、知人からいつも言われるのは「犯罪に気をつけて」という心配とも気遣いともつかない言葉であるが、とうもろこし畑と牧場の広がるのどかな酪農の州ウィスコンシンに出発する際にまでこの台詞を聞かせられることの滑稽さは、アメリカの田園地帯を訪れた経験のある人ならすぐにわかるはずだ。
 神戸市外国語大学国際関係学科の浅井信雄教授が指摘しておられる通り、アメリカという国は「先入観を拒否する50の多様性」で成り立っている。浅井教授は言う。
「ステレオタイプ的評価は『フジヤマ・ゲイシャガールの日本』という形容と同様、相手に失礼だろう。マクロ観察も時に必要であるが、あまりに大ざっぱに固定化すると有害である。ミクロ観察もあまりに詳細になりすぎると、かえって全体像の理解を遠ざけると承知しつつも、今日の日本人はもう少しミクロ分野に踏み込んでもよいと信ずる。」


隠された政治的意図
 「受信型国家日本」説の基本的問題点の第2は、このような行き過ぎた一般化ないし事実に反する一般化の背後に見え隠れする意図である。
 言うまでもないことだが、どの国の生活様式も制度もそれぞれの長所、短所を持っていることは当然である。ところが、すでに述べたことから明らかなように、「受信型国家日本」説の描き出すアメリカ像および日本像には、灰色のアメリカを黒く塗り、灰色の日本を白く塗って対比させているような面がないとは言えない。今後の日米関係のあり方の理想について、大沼教授は慎重に「素直な互恵的関係」と表現されるが、アメリカの病理や独善性を強調しつつこのような関係を提唱されることには、ある特定の政治的意図がうかがわれる。すなわち、アメリカはいつも自分が正しいと思っているけれども、日本はアメリカの言うことを軽々しく受け入れてはならない、もっと日本独自の立場を打ち出すべきであるという方向に読者を誘導しようとする意図である。アメリカでの経験と観察に裏づけられた大沼教授のお考えは興味深いものではあるが、結局、そのメッセージの核心は、石原慎太郎元衆議院議員が「『NO』と言える日本」や「亡国の徒に問う」などの著作において展開した主張と相通ずるものがあり、結果として「受信型国家日本」説は、そのような反米嫌米論をコズメティサイズし、アカデミックな外観を与える効果を持った可能性がないとは言い切れない(なお、わが国において、日米安保反対以来伝統的に親ソ反米であった左派、国粋主義的な右派のいずれもが往々にして嫌米論に傾きがちであることは、両極の不思議な一致ゆえに面白くもあるが、やはり悲しい事実である)。
 その上、アメリカの"灰色"と日本の"灰色"との間に大きな差があることも見落とされている。今さら確認する必要もないことかもしれないが、アメリカは、日本文化はもちろん、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガル、北欧、東欧、中国、韓国、ヴェトナム、アフリカ、その他ありとあらゆる文化が集い、競い合う場である。政治の表舞台でも、ジャクソン大統領やケネディ大統領はアイルランド系、ルーズヴェルト大統領(2人とも)はオランダ系アメリカ人であったし、ワシントン州では、昨年、中国系の知事が誕生した。ハワイ州やカリフォルニア州の政界で知事や議員に日系アメリカ人が選ばれてきたことはよく知られている。合衆国最高裁判所においても、「市民的権利獲得運動(Civil Rights Movement)」が盛り上がりを見せた1960年代以降に任命された裁判官10数名のうち2名は黒人、2名は女性であり、1名はイタリア系アメリカ人である。黒人や女性の州知事や市長は今やめずらしくなく、エクアドルのロルドス大統領をして「ラテンアメリカの首都」と言わしめたマイアミでは、プエルトリコ人やキューバ系アメリカ人も市長を務めたことがある。大学教授の人種、民族、宗教などはさらに多様であり、海外からの留学生の多さともあいまって、アメリカの大学のキャンパスは日本とは比較にならないほど国際的な雰囲気に満ちている。理論物理学者のアインシュタインや法哲学界に不朽の名を残したケルゼンが亡命してきたことも思い出される。移民の国アメリカは、ロシア革命後の経済的混乱の中で祖国を離れた作曲家ラフマニノフやムッソリーニの独裁を嫌ってイタリアを去った指揮者トスカニーニに対してもそうであったように、移住しようとする者には広く扉を開き温かく迎え入れてきたから、多くの著名な学者や芸術家を含め、その時々の政治的迫害の被害者が世界各国から集まり、そのことがまたアメリカ文化を一層豊かにしてきた。移住者の中には、ストラヴィンスキー(作曲家)、ホロヴィッツ(ピアニスト)、ロストロポーヴィッチ(チェリスト)、キプリング(作家)、ソルジェニーツィン(作家)のような人々もいた。スポーツの世界でも、野球の「日本シリーズ」に当たるものを「ワールド・シリーズ」と称することを初めて知った時は、アメリカとカナダのティームしか参加していないのに「ワールド・シリーズ」とは何たる誇大妄想かと思ったものだったが、その後、野茂英雄投手をはじめ、わが国において最も力のある選手たちが次々と渡米するのを目にすると、さほど不自然とは感じられなくなった。改めて見てみれば、中南米諸国出身の選手も多く活躍しているのであった。
 このようなアメリカの裾野の広さ、懐の深さを無視して、その文化を日本文化とまったく対等なものとして扱うことは、適切とは言いがたい。少なくともわれわれは、日本を含む無数の国々の文化が集まり、競い合う中から析出してきたものに対して、対抗意識ではなく敬意を持って接するべきだろう。「素直な互恵的関係」を説く大沼教授の議論では、十分な検討もなされないまま素直な関係は互恵的関係だと考えられているが、これほど圧倒的な差が厳然として存在するにもかかわらず、無理やりアメリカ文化と日本文化を等価なものとして対置しようとするのは、高校野球の全国大会優勝校と地方予選出場校を同列に並べるのにも似た行為である。
 誤解を避けるために急いで付け加えるが、何も日本文化を捨てよと言っているのではない。金閣、銀閣をはじめとする京都の古寺のゆかしさ。和歌の洗練された美しさ。「わび、さび」を追求する茶の湯や俳句。日本庭園の味わい深いたたずまい。川端康成や大江健三郎の文学。われわれが何も語らなくとも、世界はそれらを認めてきた。ボストン美術館では浮世絵の影響を受けた印象派の絵画を見ることができるし、絵の中のモネ夫人は和服を着、扇を持って微笑んでいるではないか。そして「源氏物語絵巻」は、数々の水墨画や茶道具などと並んで、シアトル美術館自慢の所蔵品の1つである。アメリカが日本のそういった素晴らしさを認めていないのであれば「日本はもっと主張を」という呼びかけも納得できるが、アメリカはもちろん、世界の多くの国々がわれわれの文化を十分に認めている時になお自己主張を促す議論には、不健康な印象が付きまとう。本来、文化と文化、国と国との対等な関係というものは、一方が自らの素晴らしさを声高に主張することによって築かれるものではないはずである。われわれ自身が自らを磨く不断の努力を怠らなければ、日本のよさはいつしか内側からにじみ出し、他国はおのずとそれを受け入れる。俳句や禅や和食が欧米でブームになったのは何もわれわれが宣伝活動に努めた結果ではないし、サンフランシスコ市警察も日本に言われて交番制度を採り入れたわけではないだろう。
 真の問題は、他国が日本の素晴らしさをこのように率直に受け入れている一方で、われわれは何をしてきたのかということである。日本人初の国際機関の長として世界銀行傘下に設けられた「多数国間投資保証機関(MIGA)」の初代長官を務められた寺澤芳男参議院議員は、20年以上もアメリカで生活された経験のある方だが、ある時、雑誌「文藝春秋」が明らかに否定的な評価として沖縄県の大田昌秀知事のことを「ダブルの背広を着こなして英語を流暢にしゃべる」と書いたのを批判して、次のように言われた。
「英語を流暢にしゃべるのもいいではないか。それを、『文藝春秋』の記事はあくまでも揶揄として使っている。英語が上手でアメリカ人と堂々と話しているやつはどうも気にくわない。自分も一生懸命勉強して、ああなりたいと素直に思うのではなく、アメリカの真似をする必要はない、日本人は日本人らしいやり方のほうがいいと開き直っている。ぼくは空恐ろしくなってきた。」
 仮に「受信型国家日本」説が一面の真理を言い表しているとしても、現に日本の国際化の大きな障害となっているこのような風潮に照らして考えるならば、あえて「欧米近代文明の行き詰まりを解く鍵を持つ日本」というイメージを強調するのは危険な議論と言わなければならない。寺澤議員もまた現状に懸念を示される。
「心配なのは、ぼくがアメリカに留学した40年前と比較しても、日本の鎖国状態は解消するどころか、ますます悪くなっているのではないかという点だ。これだけ国外に人が出て行っているのに、日本国内の締めつけは逆に厳しくなっているような気がする。40年前はもっと無邪気にアメリカにあこがれ、とにかく知らないものを取り入れよう、と日本人はしていた。ところが今は、これ以上アメリカからいったい何を学べというのだ、と日本人はうそぶく。英語など多少できさえすれば、買い物には不自由しない。英語で本を読めなくても、翻訳本を読めばいい。いざというときは優秀な通訳を使えばいい。アメリカに住む気などさらさらない、日本が1番いいと言う。ぼくたち60歳以上の連中が酒を飲みながらこう放言している分には許されるかもしれない。しかし、20代、30代の若い人たちがそう言うのであれば問題だ。小さなアパートに住んで、コンビニで買い物をし、ファミリーレストランで食事をしてときどきゴルフをプレイする、そんなイージーライフがいいと思っている若い人たちばかりでは困るのである。」
 40年前、寺澤議員は、フルブライト留学生としてペンシルヴェニア大学大学院で経営学を学ばれた(ペンシルヴェニア大学は東海岸の名門校の集まりである「アイヴィ・リーグ」の1校で、経営学の分野ではハーヴァードと並ぶ高い評価を受けている)。一方、大沼教授も、同世代の法学者の中で決して多くはないアメリカ留学経験者の1人であるが、正規の学生としてアメリカの大学に籍を置かれたことはなく、ハーヴァード、イェール、プリンストンなどの有名大学を転々としてご自分の研究をなさったと聞いている。たとえて言うならば、大沼教授は、グッチ、プラダ、ラルフローレンといった一流ブランドのブティックをのぞかれたものの、結局、何も買わずに帰って来られたのであった。もちろん、自由な立場でウィンドウ・ショッピングを楽しむ人々のほうが商品について実はよく知っているということも十分ありうる。しかし、その一方では、靴の履きやすさ、かばんの使い勝手、コートの着心地など、自分のものとして毎日使ってみなければわからないこともある。「素直なあこがれ」(寺澤議員)と「素直な互恵的関係」(大沼教授)のいずれがより"素直"なあり方なのかは読者の判断にゆだねるほかないが、アメリカを「独善の国」と断定する意識の根底には、せっかくの留学先に対する愛着や帰属意識のなさに由来するアメリカに対する半身の姿勢があるように思われて、残念でならない。


「受信型国家日本」説の時代性
 さて、第3に、現時点から振り返ってみれば、「受信型国家日本」説およびその基礎となった認識には1992年という時期の特殊性が色濃く反映されており、このことも今や問題点として取り上げるべきであるように思われる。
 1980年代、アメリカは日本より一足早く深刻な金融システム危機に直面し、連邦預金保険公社(FDIC)と整理信託公社(RTC)を中心に市場の健全化に向けた必死の努力が重ねられた。最も危機が深刻化したのが1985年から91年にかけてであり、ブッシュ政権は不動産バブルの崩壊によって発生した不良債権問題の処理に全力を挙げて取り組んだが、政権末期の1992年の段階になっても、事態の収拾はまだ完全には終わっていなかった。
 これに対して、日本の80年代はまさに「ばら色の時代」だった。アメリカにおける代表的な日本研究者として知られるハーヴァード大学のエズラ・ヴォーゲル教授が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を出版したのは1979年のことであったが、その翌年、日本の自動車生産台数はアメリカを抜いて文字通り世界第1位となった。1987年には、日本は1人当たり国内総生産(GDP)でもアメリカを追い越し、もとアメリカ商務省審議官であったクライド・プレストウィッツの著書「日米逆転」がベストセラーとなった1988年、12月の東証平均株価は3万円台に突入した。株価は、その後、89年大納会で3万8915円の史上最高値をつけたものの、年明け後の90年大発会で一気に暴落し、以来8年にわたって89年末の最高値の半値ないしそれ以下の水準が続いている。しかし、当初は内外の誰もが暴落は「一時的調整」と考えていた。
 1992年は日本のGDP成長率が初めて0%台となった長い低迷のはじまりの年だが、その時点でこれほど深刻な経済の停滞を予想していたのはごく一部の鋭い観察者だけであった。軍事対立の氷解した90年代、世界経済のモデルとなるのは戦後平和経済を一心不乱に追求してきた日本ではないかという観測すらあった。要するに、当時の日本はバブル経済の夢からまだ完全にさめてはいなかったのである。このような時代背景は、大沼教授のエッセイに「エコノミスト」誌が付した次のような紹介文にはっきりと表れている。
「国際政治経済における米国の地位が著しく低下している。対照的に日本の地位は高まり、国際舞台における日本の役割に世界の関心が集まるようになった。では日本はその期待に対し何をなすべきかをさぐった。」
 この6年間に「受信型国家日本」説が前提としていた世界像は大きく変わった。アメリカ経済は見事によみがえり、30年ぶりの長期的な好況を迎えた。レーガン、ブッシュ時代の政策の成果が90年代に入って現れてきたものだという見方もあれば、冷戦終焉効果によるものだとする説もあるが、両方という可能性もあるし、この点の分析は経済学の専門家にまかせるほかない。立教大学の斎藤精一郎教授は、1989年11月9日の「ベルリンの壁」の崩壊は世界経済を直撃したと述べ、冷戦の終結がもたらした最も特筆すべき変化の1つとしてアメリカ経済の再生を位置づけられる。"アメリカの覚醒"とも呼ばれる復活が実現したのは、冷戦に勝利したアメリカが国家戦略の重心を対ソ軍事戦略から自国経済へと大きくシフトさせたためであったと斎藤教授は言う。
「自動車、機械、流通はむろん、さまざまな分野、とりわけ先端分野でアメリカの国際的競争力の復元さらに強化が目立ち、企業体質の刷新化も進捗している。冷戦下の軍事負担の重圧から解放されたこともあって、アメリカは資源を全面的に経済発展に投入し、しかも新しい技術革新をベースとする『21世紀型の技術パラダイム』の構築に挑戦を仕かけてきた。その象徴がIT(Information Technology)革命の主導権確立であり、その先兵がマイクロソフトやインテル、さらにサン・マイクロシステムズであり、ゴア副大統領の『情報ハイウェイ構想』や電気通信法改正などだ。」
 国際政治経済における地位の低下した大国アメリカというイメージは、今や完全に過去のものとなった。特に、「アメリカ再創造」をうたったクリントン政権の誕生(1993年)をきっかけに経済の再生は「怒濤のような勢いで」進み、92年1月に2000ドルだったニューヨーク株価(ダウ30種工業株平均)は95年3月には4000ドルに達した。97年2月に7000ドル、8月に8000ドルの大台に乗せ、98年3月現在、9000ドルをうかがう展開となっている。株式市場の前代未聞の大活況を背景に、もはや景気循環は消滅したと考える「ニューエコノミー論」が浮上してきたほどである。さすがにこのような見方は少数にとどまっており、現にエコノミストの多くは今年後半からの成長率鈍化を予想しているし、一般には今回の息の長い好況は情報通信分野での絶え間ない技術革新の結果と考えられているようであるが、いずれにしても、アメリカの比較的高い成長率、低失業率 ―― かつては高いので有名だったが、現在は約4.6%と日本の3.6%(今年中に4%台になる可能性が高い)とさほど差がない ―― 、低インフレは事実であり、クリントン大統領も昨年のデンヴァー・サミットで「市場重視のアメリカ経済は他の国々のモデルになりうる」と述べている。
 他方、日本経済は90年代に入って低空飛行を続けており、回復のきざしは一向に見えない。1992年度、93年度、94年度と先進国では初めての3年連続ゼロ成長を経験した後、95年度、96年度とやや持ち直したが、昨年4月の消費税率引き上げなどでまた勢いを失い、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券と大型金融破綻が相次いで消費や投資の手控えが広がった11月以降の景気指標は、オイル・ショック後に匹敵する記録的な落ち込みを示した。金融システム不安がわずかに残っていた景気回復の芽を摘んでしまった格好である。1997年度のGDP成長率は23年ぶりのマイナスになることが確実視されており、これはG7中最低の水準である。構造的な問題があるとの内外からの指摘ももっともだろう。「あっちもこっちも大変や 不景気言うてもはじまれへん」とSMAPが歌ったのはもう4年も前のことで(「Hey Hey おおきに毎度あり」)、アメリカのデーリー商務長官は「7年も不況が続いているのに、経済を前進させるための政治的な強い後押しがないことは理解に苦しむ」とまで述べている。これでは世界の規範設定の一翼を担うどころではない。加えて、とどまるところを知らない大蔵省や日銀の不祥事によって示された日本の中枢にあって政策の舵取りをしてきた人々の「たかり」体質は、重大なモラルの問題として国際的にも驚きをもって受けとめられている。他国に謙譲の美徳など説いている場合ではない。1984年の著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン再考」において、経済的に成功した日本が「傲慢」の罪を犯しつつあることを早くも指摘されたヴォーゲル教授の慧眼に感服するばかりである。


今われわれがアメリカ法から学ぶべきこと
 「受信型国家日本」説の数々の問題点について検討した今、われわれは議論の核心へと到達しようとしている。ここでは、批判をした者の当然の責任として、日本はアメリカから何を学ぶべきなのかについて考えてみたい。
 ただし、その前に"免責条項(disclaimer)"を1項挿入する。最近では、海外に2、3年いたことのある人などまったくめずらしくなくなった。読者の中にも、長くアメリカで生活された経験をお持ちの方が何人もおられることと思う。そこで、「アメリカ」について語ることはそうした方々にゆだね、このエッセイでは「アメリカ法」に焦点を絞る。なぜなら、ここ数年間アメリカ法の研究に専念してきたという変わり者の数は ―― なお、付け加えるとすれば、研究者になる人間に"ちょっとおかしな人"が多いことは公知の事実で、大学院に入学することを俗に"入院"と称するが ―― 、アメリカに住んでいたことのある人の数に比べればはるかに少ないと考えられるからである。以下、今われわれがアメリカ法から学ぶべきこととして2点を指摘したい。


「冷たい眼」: 自由競争と自助努力の強調
 その1つは、アメリカ法の「冷たい眼」である。それは、市場経済と自由競争に基づいたシステムに最もよく表れている。競争を重視する姿勢こそ近年の経済のグローバライゼーション(国際化)の中でアメリカやイギリスが勝ち残ってきた大きな要因であり、経済協力開発機構(OECD)事務局に勤務する川本明氏も、今年1月に出版された「規制改革」(中公新書)の中で、競争が必要である理由を次のように説明される。
「競争状態は各企業に内部効率性を最大限高め、実現可能な最小費用での財サービスの生産を行う圧力を加える。もし企業がこうした努力を怠れば、採算の悪化や他のライバル企業に対する優位性の喪失などの形で、存亡の危機にさらされる。株価が下がり、経営陣も進退問題に直面し、また雇用されている勤労者も失業の危険にさらされる。」
 すなわち、競争は、効率的な経営に企業を駆り立てる「動機づけ」の効果を持っているのであり、「一言で言えば、市場における競争は、競争に敗れた場合に降りかかるマイナスという『ムチ』の効果により、経済的な価値(効率性)の実現に向けて、人間社会のもつあらゆる資源(人的であれ、物的であれ、ソフトであれ、ハードであれ)を総動員する仕組み」だと言える。社会主義経済において企業経営の合理化やコストの切り下げが実現しにくいのは、市場競争の持つ「動機づけ」の力が経済体制に根本的に欠けているためである。
 このような観点からすれば、大沼教授も言われる通り「小さな政府」を標語に掲げ、市場経済と競争の原理を重視した1980年代のレーガン、ブッシュ政権の政策によってアメリカ経済がよみがえったことは、さして驚くには値しない。確かに、優勝劣敗のルールの下では競争に敗れた者は厳しい現実に直面することになるが ―― ゆえにこれは「冷たさ」である ―― 、そのようなリスクの存在しない状況("ぬるま湯")で人や企業が自らの能力や資源を十分に活用する努力をするものかどうかは、考えてみるまでもない。よく書けた答案でもできの悪い答案でも一律に「優」を与えるいわゆる"仏"教官(大学にはこのような教官がいる)の試験のために勉強する学生がいないのと同じである。
 アメリカ法の伝統を振り返ってみれば、自由競争を重んじる姿勢はもちろん80年代に始まったわけではなく、むしろ、古くから根づいていたものであった。多種多様な民族とその文化が交錯するアメリカにおいて、能力主義が社会の根本原理とされたことはきわめて自然ななりゆきであったし、そこには、個人と個人、企業と企業が互いに競い合うことこそ社会の活力の源泉だという信念があった。浅井信雄教授は、著書「アメリカ50州を読む地図」の序文にエルンスト・ハースの写真集からの次のような引用句を掲げておられる。
「私はアメリカ人である。私の信条: 私は凡人にはならない。非凡であることは私の権利である。私はチャンスを求めるが、安定は求めない。国家に庇護される卑しい市民にはならない。ユートピアの保証された安穏より、人生のチャレンジを好む。」(口語体に改めた)
 このような考え方に立脚するアメリカ法は、既得権を持つ者に対する行き過ぎた配慮によって社会全体が停滞することへの警戒から、比較的多くのことを市場の自由にゆだねるという基本的な方針を採った。先に述べた1980年代から90年代初頭にかけての金融システム危機の克服の際にも、「自由市場が最良の規制者」という原則が強調された。
 雇用契約のとらえ方もその例外ではない。いったん採用されてしまえば能力のない者もやる気のない者も定年まで勤められる日本型の終身雇用制の下では、市場原理は機能しにくい。これに対して、アメリカのほとんどの州においては、期間の定めのない雇用契約はいずれの当事者もいつでも自由に解約することができるのが原則である。従って、雇い主は、従業員がいつでも自由に辞職できるのと同様に、いつでもどのような理由からでも従業員を解雇することが可能であり、この際、特にその旨の合意がない限り、事前の予告も必要なく、雇用契約は即座に終了する。労働協約がある場合や差別禁止法などで禁じられた特定の解雇理由に該当する場合(たとえば、人種差別や性差別を理由とする解雇は違法である)を別とすれば、いかなる理由からでも、それどころか何の理由もなくても、解雇が可能なのである。労働者のほうも、勤めている会社での待遇に納得できなければもっと有利な条件を提示する会社に移るのが当然と考えられており、それは何ら"うしろめたい"ことではない。賃金体系も勤続年数に基づく年功序列ではないので、転職することは別に不利にはならない。転職が容易で、人の流動性が高いアメリカでは、会社はそれぞれの職に適した人材を獲得しやすいし、労働者の側から見れば、自分を高く評価してくれる会社にめぐりあえる可能性が高く、これは自分の能力を十分に発揮できる機会が多いということにもなる。アメリカ経済の力強さの理由の1つはここにある。日本でも、三井物産は来年4月をめどに年功序列型の賃金制度を全廃し、全社員を職責や仕事の内容に基づき5つか6つのグループに分けて、その中で実績に応じた賃金を払う仕組みを採用するようであるが、このような動きはまだ大きな流れにはなっていない。
 租税法も、平たく言えば「頑張れば得をする」ようにできている。たとえば、所得税について見れば、アメリカの場合もやはり連邦所得税と州所得税の二本立てになっているものの、日本の最高税率が国と地方を合わせて65%であるのに対して、連邦所得税の最高税率は39%である。そして、州は自らの税制を自由に定めることができるので、ワシントン州やワイオミング州のように州所得税がない州もある。課税最低限もアメリカのほうが低く、要するに、アメリカの制度では、日本ならばまったく税金を払わなくてもよい貧しい層からも少しは所得税を徴収する代わり、富裕な層の税率が高くなりすぎて働く意欲が低下しないよう工夫がなされているのである。今年2月の衆議院予算委員会において所得税、個人住民税制の抜本的な改革を進める方向を示すにあたって、橋本龍太郎首相が「21世紀に向けた簡素、公平な税制」を目標として掲げ、「さらなる減税だけが議論になるのは正確ではない。他の国なら所得税を負担する階層が日本では負担していないことをあわせて考える必要がある」と述べた所以である。このような税制によって成功をおさめたのはアメリカばかりではなく、たとえばイギリスは、いわゆる「英国病」が著しかった1979年当時83%であった所得税の最高税率を40%に、52%であった法人税率を31%に引き下げ、保守党政権の下で自助努力型経済への転換を果たした。斜陽の老大国のイメージを返上したその成果は「100年続いた長期低落に終止符を打った」とも評価されており、最近では、イギリス経済の体質若返りはますます鮮明になってきている。政権こそ労働党の手に移ったが、ブレア首相も「『揺りかごから墓場まで』は20世紀まで」として福祉制度の見直しに着手しており、生活保護に頼ったほうが就業するよりも所得が上回る場合がある現行のシステムを改め、「働くと得をする」仕組み作りを目指す方針という。
 また、給与所得控除(サラリーマンの収入の約3割に税金がかからないという制度)も日本では実際の経費よりもはるかに高い水準になっている。経費の実額を積算した場合、3割に達することは実際にはまずなく、従って、日本では会社から独立して個人で仕事を始めることは非常に不利である(給与所得控除の適用がなく、経費の実額のみしか控除されないため)。公共経済学の専門家であり、「『超』整理法」の著者としても有名な東京大学の野口悠紀雄教授が指摘されるように、わが国において「サラリーマンが多すぎる」理由の1つはここにあるのだから、アメリカ経済の復活を下支えしたのが多くの独立自営業者であったことも考え合わせれば、日本でも「起業」を促進する税制を考案する必要があるだろう。
 さらに、少し違った観点からアメリカの州の税制について付け加えれば、ここでも競争原理が機能しており、それぞれの州が企業の誘致や観光客あるいは買い物客の呼び込みを目指して"魅力的な"税制を定め、競い合うようになっている。その結果、消費税の税率も州ごとに異なり、消費税の高いワシントン州の住民の中には、大きな買い物をする時は消費税のない隣りのオレゴン州に出向く人が多い。東海岸でも、消費税のないニューハンプシャー州には「アウトレット・モール」と呼ばれる一流ブランドの放出品を安売りする大型店舗が多数立地し、週末にはボストンやニューヨークから買い物客が集まる。ニューハンプシャー州はその他の税率も全般に低いので、多くの裕福な人々が移住してくるという。
 もちろん、競争のよさを社会に十分に活かすためには、人々が自由に活動を展開できるよう市場を健全な形で維持する仕組みが不可欠である。とりわけ、複数の企業が共同して価格をつり上げたり、商品やサーヴィスの内容を相談して制限したりする行為は、消費者の利益を損なうものとして取り締まられなければならない。この点、独占禁止法の母国であるアメリカでは、大企業がその経済力を濫用して各産業分野を支配することを厳しく規制する一連の反トラスト法が整備されており、「自由の憲章(charter of freedom)」とも呼ばれている。東京大学で産業法を教えておられた松下満雄教授によれば、アメリカ独占禁止法の源流は「建国の父祖(founding fathers)」と言われるジェファソン、マディソン、ハミルトンらの政治思想に求めることができ、その思想とは、端的に言えば、権力の集中に対する嫌悪に基づく「自由主義、平等主義、分権主義」であった。松下教授は、次のように解説する。
「権力分立、抑制と均衡、そして連邦主義は政治権力の集中に対する制御の思想であるが、このような思想から派生するひとつの結論は、経済権力の集中は政治権力のそれと同じく好ましからざるものであり、圧政に結びつきやすいということである。米国で反トラスト法が生まれ、これが重要な役割を演ずるようになった背景としては以上のような政治思想があることを無視することはできず、この意味で反トラスト法はすぐれて米国的価値観に基礎づけられた法律であるということができる。すなわち、反トラスト法は『多元主義』(pluralism)の価値観を体現するものといえよう。」
 このようなアメリカ法の考え方の表れた最近の例として、ビル・ゲイツ会長率いるマイクロソフト社が圧倒的なシェアを持つ基本ソフトと自社製ブラウザーを「抱き合わせ販売」している問題で司法省の提訴を受けたことが挙げられる。この事件では、ソフトウェア市場独占の弊害を探る目的で上院も公聴会を開き、マイクロソフト社がライヴァルのネットスケープ・コミュニケーションズの締め出しを画策したとの疑惑を追及した。
 他方、日本の独占禁止法は、全体として見ればアメリカ法の強い影響下にあるにもかかわらず、たとえば、独占禁止法違反の行為によって営業または財産に損害を受けた者はその損害の3倍額を請求できるという「3倍賠償(treble damages)」の制度は受け継がず、また、勝訴者は合理的な範囲の弁護士報酬を相手方から取れるという制度も採り入れていない。その上、独占禁止法違反の行為によって被害を受けた者は、公正取引委員会の審決確定後でなければ訴訟を提起できないというアメリカ法にはないルールを定めている。延々と待たされた挙げ句、勝訴しても実際の損害額のみしか得られない(結局、弁護士費用分は損をすることになる)となれば、わが国で独占禁止法違反を理由に私人が提起した訴訟がきわめて少ないことも当然であり、この結果、自由に競争が行われる環境を乱す企業に対する法の監視は非常に甘くなっている。また、証券取引法も日本では必ずしも定着せず、故新井将敬衆議院議員と日興証券の証券取引法違反(利益供与)事件に際して日経新聞編集委員の末村篤氏は、未公開株、公募株、転換社債などを使った「確実なもうけ話」や事後の損失補填、インサイダー取引などが長らく違法行為とされなかったわが国の歴史を振り返りつつ、「やりたい放題の背景には、日本全体が巨大インサイダー社会で市場経済のルールである市場法(独禁法や証取法)が根付いていない問題がある」と指摘された。
 ここで、上に述べた3倍賠償をはじめとする訴訟提起を容易にするアメリカ法上の仕組みは、競争の中から社会にとってプラスになるものが生まれてくることを重視するアメリカの基本的な姿勢を訴訟制度の面でも貫いたものと評価できることに注目したい。すなわち、様々な商品や人が市場に現れ、相互に競い合うことを促すのと同様に、不満のある人々にそれを我慢するのでなく、どのような主張であれ、まずは裁判所の扉をたたいてみることを勧めているわけである。その結果、様々な主張が法廷に持ち出されることになり、裁判所は社会の幅広い層の利害を勘案して法と正義の内容を決めることが可能になる。このような仕組みの典型的な例を他に挙げるとすれば、クラスAクションや成功報酬制度などがある。クラス・アクションとは、たとえば価格協定(カルテル)によってある商品を自由競争があったとした場合よりも高い値段で買わされた消費者全体というように、あるグループを代表して、その中の1人または数人が訴訟を起こすことを認める制度であり、1人1人の損害は小さいが全体として見れば膨大な損害が発生している場合には、この制度がないと被害者は訴訟に要する費用を考えて"泣き寝入り"することになりやすい。成功報酬制度とは、原告が訴えを提起するにあたって弁護士と取り決めるアメリカで最も一般的な弁護士報酬の支払い方法で、勝訴した場合は獲得した金額の3分の1程度を払うが、敗訴した場合にはまったく払わなくてよいというものである。最初の相談なども当然無料である。
 また、松下教授の言う「権力の集中に対する嫌悪」というアメリカ的価値観は、三権分立や地方自治だけでなく裁判制度の中にも反映され、民事事件であれ刑事事件であれ、事実問題は陪審(無作為に選ばれた12人の市民)、法律問題は裁判官が判断することになっている。ここでは陪審制度の詳細に立ち入る余裕はないが、1つだけぜひ述べておきたいのは、それぞれに仕事や家庭を持つ12人の市民を集めて事件の事実関係を判断させる制度が存在することによって、アメリカでは集中審理が裁判の原則とされるようになったという点である。仕事を何か月も休まなければ陪審員を務められないとすれば(非常に大きな事件ではそのようなことも実際にありうるけれども)、せっかくの市民参加型の司法制度も正常に機能することは期待できない。そこで、入念な下準備をした上で審理に入り、審理そのものは通常数日間、早ければその日のうちに終了するというシステムが生まれた。裁判が長引くことは正義が行われないにも等しいとの考えも根強い。従って、わが国の甲山事件のように審理に20年以上もかかることはアメリカではまれである。加えて、先に述べたように事実判断は陪審の専管事項であり、陪審は1審段階にしかいないので、甲山事件のように事実問題に関する地裁の判断が控訴審で覆ることは、陪審員の収賄が明らかになったなどのごく例外的な場合を除けばありえない。そもそもアメリカでは、1審で無罪判決が出れば検察官は上訴できないのであり、合衆国憲法と同様の「二重の危険」禁止条項を持っているにもかかわらず、検察官上訴が認められていること自体、日本における官僚の強さを物語るものであろう。
 他社との競争に負ければ、企業は利益を失う。欠陥商品を製造して訴訟に負ければ、損害賠償を被害者に支払わなければならない。このようなリスクが存在しない状況では、企業はよい商品を作ろうとはしないし、よいサーヴィスを提供しようとも思わない。価格ももちろん下がらない。人もまた、競争のない環境では自己の能力を最大限に活用する努力をすることはない。従って、法は競争や訴訟を促す仕組みを用意し、頑張った者がその成果を手にし、怠けた者は淘汰され、かつ、社会に害を与えた者は民事的(損害賠償)ないし刑事的(刑罰)にその責任を問われるよう制度全体を整えてゆく必要がある。このようなシステムが実効的に機能するためには、裁判所が市民にとって身近な存在であること、そして審理が迅速に行われることが大切である。時としてシニカルなように見えることもあるが、アメリカ法はやはり現実を見据えた上で、多くのことを市場にゆだねつつ、競争を阻害する行為については政府の厳しい取り締まりを認め、また、私人が訴えを提起しやすい仕組みを整備して社会の各層の利益が法の形成に反映されるよう工夫してきた。クールな見通しに基づいて定められたルールは、一見、冷たいようでも、長期的にはその社会全体のパイを大きくすると考えられる。今目の前にあるパイの配分のみにこだわり、いかにしてパイそのものを大きくするかに目を向けないのは子供の議論であろう。
 ところが、このような重要なアメリカ法の伝統を日本がこれまで十分に「受信」してきたとはとうてい言えない。郵便貯金民営化が阻止されたことや、旧国鉄債務のJR各社への押しつけ、そして今年に入ってからの銀行への公的資金投入などは記憶に新しい。今を遡ること9年前の1989年、社会主義体制は崩壊し、わが国を含む西側諸国には甘い安堵感が広がっていた。しかしその時、われわれが気づかなかったのは、キューバ、北朝鮮などごく少数の例外を別とすれば、今や日本とそれを見習って発展した諸国が世界で最も社会主義的な国々になったという事実であった。昨年夏のタイ通貨の急落に始まり、東南アジア各国や香港、韓国にも飛び火した混乱は、官僚主導、すなわち、自由市場よりも官庁の規制に問題の解決をゆだねるという点で社会主義の欠陥を共有するアジア型の"ゆがんだ資本主義"が崩壊し始めたことを示すものと見られている。たとえば、アジア通貨危機の救済に乗り出した国際通貨基金(IMF)は、緊急融資と引き換えに各国政府に経済構造と政治規範の大がかりな変革を要求するプログラムを受け入れさせた。もちろん、こうした変革は大きな痛みを伴うが、3月30日の日経新聞の1面コラムは、韓国の金大中政権が憎まれ役のIMFを巧みに使って、普通なら手がつかない大胆な改革に取り組んでいることを紹介している。そして、わが国の現状を次のように憂慮する。
「そこへいくと、日本の政府、自民党は外国の要求に神経質すぎる。米政府の景気刺激を求める声に『内政干渉だ』と不快感をあらわにした。経済の実態をみれば、外国にいわれる前に、国内の各方面の声をよく聞いて景気対策を打ち出すべきだったのに、政治的メンツから政策転換を遅らせた。外国の要求も正しければ、素直に耳を傾けるのが大人の国というものだ。」
 東京大学で長く政治過程論の講義を担当された京極純一教授は、名著「日本の政治」において、戦後日本の生活者は、アメリカによって持ち込まれた民主主義を「和」の伝統と調和する「みんなで仲よく」という秩序原理としてしか理解しなかったと喝破しておられる。そのため、同じ種類の要求を出した者は等しく取り扱ういわゆる「均霑努力」ばかりが強調され、政治家や官僚がそれぞれの地元や業界の面倒を見る「親心の政治」の下で、予算は総花的に配分された("ばらまき行政")。そこには投入する費用とその効果の計算に基づいたメリハリのある配分という発想はなく、その時々の状況で順番待ちをしなければならないことはあっても切り捨てられることはなかったため、採算に合わない部門や非効率な経営を行う企業も生き残ってしまった。堺屋太一氏の言葉を借りれば、目的達成のための「機能体」(たとえば、官庁であれば行政サーヴィス、企業であれば利潤の追求がその本来の目的であろう)が構成員の満足や心地よさを追求する「共同体」に変質してしまっていたのである。川本明氏の強調する次の点は、このことと関連する。
「競争が見た目には激しく見えても、間違えば企業倒産という危険にさらされていないと、競争によるムチの効果は大きく減殺される。ある規制産業において企業間のシェア争いは激しいが、その産業への新規参入は制限されていて認められていないとする。こうした産業においては、競争の行きすぎを抑え、企業の経営不安定化や倒産を防ぐことが規則目的に含まれている。従って産業は、よほどのことがない限り倒産という事態にはならないと予測し、日々の経営においてもこうした予測に基づいて行動する。このような産業では、往々にして企業相互に『横並び意識』が強く、企業のライバル意識はそれだけ激しい。従って主観的には『ウチの業界は競争が激しい』ということになるが、倒産するという究極の危険はないという前提での競争であり、内部の効率性をぎりぎりまで高めるための努力、将来の生き残りのために前もって大胆な経営方針の転換を図るといった努力を企業にとらせる効果はきわめて弱い。」
 金融業界や航空業界に典型的に見られた、市場ではなく官庁を相手にしていれば事足りる構造を想起すれば、これこそまさに過去半世紀の日本の姿だったのではないだろうか。1956年以降普通銀行免許を受けた銀行はないということは、業界への新規参入がなかったということに他ならず、毎年数十件の新設銀行が認可されるアメリカの状況とはかけ離れている。1980年代に入って規制緩和を求める声が強まっても、わが国の諸官庁は権限維持に固執し、中途半端な自由化の一方で業界との事前調整に偏した裁量行政がいつまでも残った。たとえば、大蔵省の許認可件数は、1986年から95年にかけて減るどころか300件近くも増えている。深刻な金融システム危機の背景には大蔵省の手のひらでしか踊れない"ひ弱な"金融機関があり、相次ぐ官僚逮捕の根底には肥大化すると同時にゆがんだ裁量行政という汚職の土壌があったとのマスコミの指摘ももっともである。かつて、行政改革に取り組まれた土光敏夫氏は「『官』にぶら下がって少しでも得をしようとする『民』の卑しい心こそ、行政を肥大化させる原因である」と言われたが、権限に恋々とする官庁とそこから利益を引き出そうとする業界のいずれが"鶏"でいずれが"卵"かは実際には判然としないとしても、はっきり言えるのは、このような内輪優先のアジア型資本主義が通用しなくなりつつあるということだろう。日本の行政がこの期に及んでもなお旧態依然たる「横並び」の発想とそれを前提とした手法にしがみついていることは、金融安定化策と称して大手と呼ばれる銀行すべてに公的資金投入を認める方針を打ち出したことにも示され、アメリカのタルーロ大統領補佐官は「これこそ橋本首相がやめたと宣言した護送船団方式そのものではないか」と厳しく批判している。
 また、農業と一部の工業製品は戦後長期にわたって手厚い保護を受け、安価で良質な外国の商品は、関税および非関税障壁によってわが国の市場から締め出されてきた。その最大の被害者は日本の消費者であり、預金保険機構金融危機管理審査委員長も務めておられる慶応大学経済学部の佐々波楊子教授らの1994年の研究によれば、日本の関税および非関税障壁は日本の消費者に対して10兆から15兆円の損失をもたらす一方、消費者のこれらの犠牲の下に日本の生産者が得る利益は7兆から9兆6000億円に過ぎず、日本政府が関税収入として獲得する3000億円と合わせても、日本経済全体では1兆1000億から2兆4000億円の損失を被っているという。これがいわゆる内外価格差の問題であり、これらの障壁のために消費者は、乳製品、菓子類、清涼飲料、たばこについては関税および非関税障壁がなかったとした場合の約2倍、衣服、パン類については3倍、大豆は4倍、小麦は5倍、ラジオ、TVについては6倍、精米、茶、コーヒー、化粧品、はみがきにいたっては約7倍もの価格を払わせられているのである。
 規制緩和に反対する人々はアメリカの問題点を好んであげつらうが、仮にアメリカの制度にいくつかの欠点があるとしても、それは日本がアメリカの政策を採り入れるべきでないことを必ずしも意味するわけではない。政府の役割に対する考え方の一方の極に自由競争と自助努力を柱とするアメリカの発想があり、もう一方の極に政府依存型の日本があるという場合、何もかもアメリカ型にするのではなくても、「あともう少し」自助努力型に近づけたほうが国民全体の利益が大きくなるということは十分に考えられるからである。このような観点からすれば、アメリカから学ぶべきことはまだまだたくさんあると言わなければならない。確かに、今年4月1日からセルフ・サーヴィス方式の給油が解禁されたことや、新しい外国為替及び外国貿易法の施行によって海外に自由に預金口座を持つことができるようになった(外国の銀行口座から代金を引き落とす形での個人輸入がしやすくなった)ことなど、日本の規制緩和にも多少の成果は見られる。外貨の両替を扱うコンヴィニエンス・ストアも近々登場するものと思われる。しかし、たとえば銀行の自動払戻機(ATM)は、以前より遅くまで利用できるようになったとはいえ、1日24時間1年365日使えるのが当然のアメリカの状況とは比較にならないし(ただし、日本でもシティバンクはすでにこのようなサーヴィスを提供している)、航空業界の自由化も徐々に進みつつはあるものの、スロット(空港の発着枠)の一定割合を入札にかけることで国内航空運送業への新規参入を容易にするなどの措置は、大きな価格引き下げ効果が予想されるにもかかわらず、実現されていない。政府は「日本版ビッグバン」と称して2001年までに金融規制の全面的な撤廃を目指しているというが、金融コンサルタントの須永晃氏は「日本では行政がビジネスチャンスを封じてきた。利益がどんどん外資に吸い上げられ、永遠に負け組になる」と語る。タルーロ補佐官も、日本の規制緩和の進展状況に関し、金融、証券制度改革や大規模小売店舗法改正については評価できる措置もあるが、全体的に見れば「失望している」とし、「現状で言えば、果物かごにはわずかな成果しかない」と述べている。外国企業の進出が著しい現在、危機を危機としてしっかり認識し、ぬるま湯の安定の心地よさを捨てて競争を阻む制度的な欠陥を一刻も早く改善しなければ、日本はそれこそ「老大国」に転落しかねない。


「温かい配慮」: 差別や偏見を放置しないシステム
 その一方で、アメリカ法は、このような「冷たい」市場経済の中に生きる弱者への配慮を忘れなかった。個人の責任と努力を強調する競争社会としてのアメリカの姿と、差別や偏見を許さず、その防止に真剣に取り組むアメリカの姿とは、一見、矛盾するように思えるかもしれない。実際、これら2つのことは、しばしば逆接の接続詞でつながれて記述される。しかし、そうではない。アメリカが自由競争と自助努力を建前とする国であるからこそ、本人の能力と何の関係もないところで決まっている先天的特質によって人を差別することの不当さが誰の目にもはっきりと認識され、少なくともある程度以上の教育を受けた人々の間では、差別をすることはきわめて恥ずかしいことだという意識が浸透しているのである。このことは陸上競技を思い浮かべるとわかりやすい。レースが重要なものであればあるほど、ラインの1本1本が正確に引かれ、公平な条件で競走が行われることが大切になるし、ドーピングなどの反則行為は恥ずべきものという評価を受けるようになるのである。
 多様な文化のぶつかり合うアメリカでは、社会を束ねるものはそのコンセンサスを表現した「法」以外にないという考え方が広まった。特に合衆国憲法はアメリカ社会の最大公約数としての意味を持っていると言われる。それだけに、差別の解消のために法が果たした役割は大きく、とりわけ合衆国最高裁判所をはじめとする裁判所の動きは注目に値する。たとえば、公立学校における人種別学(黒人は黒人のみの小学校、白人は白人のみの小学校に通学するという制度)を違憲とした1954年の合衆国最高裁判決は、アメリカ史上最も重要な判決の1つに数えられているし、その後も、裁判所は人種別学を続ける州に対して公立学校の統合を命じ、黒人と白人の住む地域が遠く離れている市町村にはバス通学の制度を導入させるなど、人種差別のない公教育を実現するために積極的な役割を演じた。立法府も少し遅れてこの流れに加わり、1964年の「市民的権利に関する法律(Civil Rights Act)」は、ホテル、映画館、レストランなどの施設での人種差別、そして雇用における人種差別を禁止している。その背景には、キング牧師らに代表される「市民的権利獲得運動」の盛り上がりがあった。
 1970年代に入ると、アメリカ法は女性差別を正面から取り上げ始めた。その代表は、男性将校には配偶者手当を自動的に認めておきながら、女性将校には配偶者が生計を依存していることを示さない限り手当を支給しないという制度を違憲と判断した1973年の合衆国最高裁判決である。同じ年、最高裁は妊娠中絶が憲法上の「権利」であることを認めて、望まない出産の負担から女性を解放し、社会の中で働く女性を側面から手助けしている。80年代には政府や大企業の要職に就く女性も目立つようになった。また、強姦(夫による妻の強姦も含む)はもちろん、それまではかなりの部分が放置されていた男性の女性に対する暴力も厳しい制裁に服するようになる。家庭内暴力や相手が友人である場合もその例外ではない。留学中見聞きしたことの中で非常に印象的だったのは、昨年1月、知り合いの日本人女性が路上で暴行された事件である。アメリカはやはり恐ろしい国だなどと思ってはいけない。まったく恥ずかしいことに、この事件の加害者はハーヴァードに留学していたわが国の通産官僚であった。無抵抗の女性に殴る蹴るの暴行を加えて立ち去った彼を目撃して、何人かの通行人がすぐに警察に通報した。ただ、被害者は、体中血だらけになっていたとはいえ、骨折や跡の残るような傷があったわけではない。この事件が日本国内で起こっていたら、友人どうしのけんかとして簡単に処理されてしまっていたかもしれない。しかし、舞台はアメリカであった。1時間と経たないうちに加害者のマンションの前には4台のパトロール・カーが現れ、この不届き者はもちろん逮捕され、留置所に入れられた。彼は翌日保釈されたが、犯行の際ブーツを履いたまま彼女を蹴っていたので、これはマサチューセッツ州法上「危険な凶器(dangerous weapon)」に当たるとして没収され、裸足でマンションまで帰ってきたそうである。その後、18か月の執行猶予つきの有罪判決を受けたが、留学先のハーヴァードは彼の卒業を認めることさえきっぱり拒否したというのに、この人物は、何といまだアメリカ法上は執行猶予中の身である今も通産省で働いている。女性の権利に対する彼我の意識の相違はかくも大きい。冒頭でふれたセクシュアル・ハラスメントもアメリカでははっきり「性差別」とされ、「市民的権利に関する法律」に反する重大な違法行為である。ところが、昨年11月に行われた人事院の調査によれば、わが国の女性国家公務員の7割以上は様々な形でセクシュアル・ハラスメントの被害を受けた経験があり、「わざと体に触られた」も67%、「性的関係を強要された」も17%に上っている。
 ところで、女性の社会進出が進んだ1980年代、アメリカではもう1つ大きな出来事が起こった。AIDS(後天性免疫不全症候群)の蔓延である。このことは、当初は予想されていなかった大きな影響をアメリカ法に与えた。言うまでもなく、本来、AIDSにかかるかどうかはその人の性的指向(性的関心が同性に向かうか異性に向かうかということ)とは何の関係もないけれども、たまたま80年代のアメリカにおいて最初にAIDSが広がったのはゲイの男性(性的関心が同性に向かう男性)の間においてであり、アメリカの人々は、自らの家族や親しい友人たちが病気になったことによって、社会の中に多くのゲイの人々がいたことを知った。それはおそらくほとんどの関係者にとってはつらい経験であったに違いないが、その後の研究は性的指向が「先天的に」ないし「出生後きわめて早い段階で」決まることを明らかにした。調査によれば、人口の10%はゲイまたはレズビアン(性的関心が同性に向かう女性)であり、この比率は男性においてやや高い。従って、統計的に見れば、1クラスに50人の男子生徒がいるとすると、そのうち5人から6人はゲイである確率が高いのである。
 ここで、アメリカ法の大原則は、その人自身の意志では変えることのできない持って生まれた特質によって人を差別することは許さないということであった。ゲイやレズビアンの人々が日常的な差別にさらされ、偏見に基づく暴行の被害者となることも多いことを重く見たアメリカの地方自治体は、1972年にイースト・ランシング市(ミシガン州)がゲイ差別禁止条例を導入したのを皮切りに、雇用、教育、家屋の賃貸借などの場面での不当なゲイ差別を禁じる条例を制定し始め、1980年代、多くのアメリカ人が自らの家族や友人を通してゲイの人々に対する偏見や差別を身近な問題と感じるようになると、このような流れは大きく加速した。現在では、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、シカゴ、アトランタ、ヒューストン、ロスアンジェルス、サンフランシスコ、シアトルなど、主要都市のほとんどが差別禁止条例を持っている。州レヴェルでも、1982年に州法でゲイ差別を禁じたウィスコンシン州をはじめとして、ニューヨーク州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、ペンシルヴェニア州、イリノイ州、カリフォルニア州、ワシントン州、ハワイ州など、10数州がゲイやレズビアンの人々に対する差別を禁じている。同性のカップルに互いの遺産の相続権を認めるなど婚姻類似の法的効果を付与する「ドメスティック・パートナーシップ」制度も多数の自治体が採用しており、ニュージャージー州では、同性のカップルも養親となることができるようになった。
 もちろん、人種差別を撤廃する際にクー・クラックス・クランのような白人至上主義団体からの反発があったように、このような州や市町村の動きに対しても激しい反動があった。たとえば、コロラド州は、デンヴァーなどいくつかの市がゲイ差別禁止条例を制定したのに対して、住民投票でコロラド州憲法を修正し、条例を無効とした。しかし、この州憲法修正に関しては、州は「何人にも法の平等な保護を否定してはならない」とうたった合衆国憲法に違反するとの訴訟が提起された。1996年、合衆国最高裁は遂に違憲の判断を下し(州憲法に優位する合衆国憲法との関係において、差別禁止条例を無効とした州憲法修正が違憲無効と宣言されたので、条例が効力を有することになった)、ここにゲイやレズビアンの人々に対する差別はアメリカ法上許されないことが確定したのであった。これ以外にも、現在、同性婚の法的許容性などが論議の的になっており、おおむね1950年代から人種差別、1970年代からは女性差別の問題に取り組んできたアメリカ法にとって、今後の10数年から20数年間はゲイやレズビアンの人々に対する差別の解消に努めることが大きな課題となるものと見られる。最近では、ゲイであることを自らオープンにする人も増え、ゲイの上院議員、下院議員、裁判官、市長などもアメリカの各地で活躍している。ハーヴァード大学でも、国際法のデーヴィッド・ケネディ教授や行政法のジェラルド・フラッグ教授は自らがゲイであることを隠さず語っており、学生の側にも彼らを温かく受け入れる雰囲気があった。
 残念なことに、アメリカ法のこのような面についても日本は十分「受信」してきたとは言えない。男女雇用機会均等法を強制力のある実効的な内容にするための手直しも遅れに遅れ、ようやく来年4月から改正男女雇用機会均等法が施行されるという状況であるし、ゲイやレズビアンの問題については、日本社会ではまだ差別であることの認識自体乏しい。このような中で、ゲイのグループに宿泊施設の利用を認めなかった東京都の行為を昨年9月の東京高裁判決が違憲とし、都に損害賠償を命じたことは、平等保護の分野での日本法の前進を感じさせる出来事であった。しかし、たとえば人権週間の催しなどでは、外国人差別、女性差別、部落差別については比較的大きく扱われているものの、アメリカ法的な発想からすれば当然もっと取り上げられてもよいと思われるアイヌ民族に対する差別、障害者差別、ゲイやレズビアンに対する差別などの問題への言及はほとんどない。周囲を見回しても、車いすで出入りできるようスロープの設置された建物はまだ少数にとどまっているし、アメリカではごく一般的な車いす対応型のバス(乗降口の階段部分がリフト状に上下に動くもの)もきわめて台数が少ない。中学校や高校ではゲイやレズビアンの生徒に対するいじめがしばしば行われており、極端な事例では教師がこれに加担している場合すらあるという。非嫡出子差別にいたっては、わが国では最高裁までこれを合憲としており、親どうしがどのような関係にあったにせよ、自分の努力ではそれをどうしようもない立場にある子供を差別することにどのような意味があるのか理解に苦しむところである。
 よく知られている通り、日本国憲法は戦後アメリカの占領下で作られたものであって、条文の文言も合衆国憲法に酷似しているのだから、本来、アメリカの判例を参照して解釈することが適当な性質のものである。他国の法の歴史を見ても、たとえば、独立後イギリス法を継受したアメリカの各州は、地理的な違いその他の事情によって変更せざるをえない部分以外については長くイギリスの判例を法的判断の指針としてきたのであり、母法の運用に学ぶことは賢明なことでこそあれ、何ら卑屈なことではない。今世紀に入ってからの例を求めれば、アラスカは、州に昇格するにあたってオレゴン州法を受け継ぐことを決め、オレゴン州の判例を自州においても拘束力のあるものとして扱った。そこまでするかどうかはともかく、日本が平等保護に関するアメリカの判例を見習うことは様々な方法で可能であり、かつ、望ましいことである。わが国では差別を解消するための法的対応がこれまで必ずしも十分ではなく、そのために偏見や差別が放置されてきた印象がある。そのような状態が多くの人の考える「正義」に反するものであることは言うまでもないが、これに加えて、高齢化と少子化の進展に伴って日本社会を支える青壮年の層が薄く、貴重になりつつあることに鑑みれば、多くの有能な人材を「アイヌだから」「ゲイだから」「非嫡出子だから」などの意味不明な理由で排除することの社会的損失ははなはだ大きい。アメリカ法の軌跡および動向を謙虚に学び、生まれつきの特質によって人を差別することを許さないシステムを構築しなければならない理由はここにもある。


おわりに: キリスト教という"背骨"
 以上、アメリカ法から何を学ぶべきかについて見てきたが、一貫して指摘できるのは、原理原則を明確にし、それに反する行為を許さないアメリカの姿勢である。世界中から多様な民族が集うアメリカだからこそ、このようなわかりやすい態度が必要とされたという面も大きいが、唯一神を中心とする世界観を持つ一神教としてのキリスト教の影響がうかがわれるとの見方もある。また、特に社会的弱者への「温かい配慮」については、キリスト教的「愛」の発露という性格を無視しては語れない。19世紀に黒人奴隷の解放を訴えたのも1960年代の「市民的権利獲得運動」を支えたのも、牧師を含む多くの熱心なアメリカのクリスチャンたちであった。聖書は次のように説く。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて1つだからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3:26-28)
 このようなキリスト教的要素は、アメリカ文化の多様性と決して矛盾するものではない(そもそもアメリカでは、カトリック、バプティスト、メソディスト、ルター派、クエーカー派、長老派、会衆派、聖公会、モルモン教など多数の宗派が存在していて、キリスト教自体きわめて多様である)。そのことは、アメリカの教会で礼拝に参加してみればすぐに実感できることである。教会との接点のないまま日本で想像していると、アメリカの教会には裕福で保守的な白人が集まっているかのようなイメージを抱きがちであるが、実態はそうではない。筆者は、ハーヴァード大学から紹介されたドイツ系アメリカ人のホスト・ファミリーに誘われてキャンパス近くの教会を訪れ、最終的には1996年のイースターに洗礼を受けたが、ルター派の教会だったため、確かに相対的にはドイツ系や北欧系の人々の比率が高かったけれども、白人や黒人はもとより、中国系、韓国系、日系、フィリピン系などヴァラエティに富む人々が集まってきており、そこには、人種や民族を問わず、来る者すべてを心から温かく迎え入れる雰囲気があった。教会の中では様々なグループが活動しており、男女平等を推進するグループ、ゲイやレズビアンの人々に対する暴力や差別をなくすための活動をするグループなども活発にミーティングを開いていた。また、女性に対しても、食事会の準備やコーヒー当番を(どこかの国の町内会などでよくあるように)一手に押しつけるようなことはなく、男性も女性と同じように炊事や皿洗いを積極的にすることが当然と考えられている(女性を"手伝う"のではない)。メンバーの経済的な階層は様々であったが、社会の中に生きる弱者への援助という一点では多くの人の心はまとまっていた。転居に伴ってシアトルの教会のメンバーになったが、ホームレスの人たちに食事を配る「コミュニティ・ランチ・プログラム」と呼ばれる活動で200人分のスープをよそったことは、大学で学んだことにまさるとも劣らない大切な思い出である。このシアトルの教会はルター派の教会としては比較的大きいほうで、3人の牧師の方々がおられ、1人は白人男性、1人は白人女性、1人は黒人男性であった。視覚障害のハンディキャップをまったく感じさせない黒人のブラウン牧師の熱意あふれる姿には、とりわけ胸を打たれるものがあった。また、信徒会長であったデーヴィッド・コープリー弁護士はゲイで、長年一緒に生活しているパートナーの男性と2人で毎週欠かさず礼拝に出席しておられた。しばしば誤解されているが、ゲイの権利の擁護が教理に反すると主張しているのは、キリスト教の中でも極端な立場を採るごく一部の人々に過ぎない。実際、世界で同性婚を認めている国を見ても、デンマーク(1989年に承認)、ノルウェイ(1993年)、スウェーデン(1995年)、ハンガリー(1996年)、アイスランド(1996年)、オランダ(1997年)とすべてキリスト教国である。
 様々な集団に属する人々を包み込むキリスト教のこのような懐の深さは、アメリカにおけるクリスチャンの層の厚さにつながっているように思われる。ギャラップ社の世論調査によれば、「あなたは教会またはシナゴーグ(ユダヤ教会)のメンバーですか?」との問いに対して「はい」と答えた人は69%、「あなたは過去7日間に教会またはシナゴーグに行きましたか?」との問いに「はい」と答えた人は41%であった。注目に値するのは、「『永遠の生命の唯一の保証は、イエス・キリストへの個人的信仰である』との説にあなたは同意しますか?」との問いに対して回答者の59%が「完全に同意する」としていることで、「まあ同意する」の17%を合わせると76%のアメリカ人がこの考えに同意を表明している。「まあ反対である」は11%、「完全に反対である」は10%であった。
 通産省や世界銀行でも活躍されたサントリー常務の川口順子氏は、「アメリカの"両親"」と題する文章で、1957年に渡米した時、受け入れ先となってくれたホスト・ファミリーについて次のように語っておられる。
「『勉強も大切だが、その前に他人に親切な人、善い人であってほしい』。メードさんもいる家だったが洗濯、部屋の掃除などはすべて自分でしなさい、とも言われた。他人をわけ隔てなく受け入れ、持っているものを与えるやさしさと他人に頼らない強さ。夫妻から受け取ったものは『良き米国人』の精神そのものであった。」
 川口氏が留学された日から40年以上が経つが、このようなアメリカ的精神は今も輝きを失っていない。筆者のホスト・ファミリーであり、困難な時にいつも支えになってくれたケスター一家も、このような素晴らしい価値観を持つ人々であった。その背景にはやはりキリスト教の影響が感じられる。ハーヴァードでは寮に入っていたので、ホスト・ファミリーと言っても川口氏のように一緒に暮らしていたわけではないが、独立戦争の時の戦いで知られるレキシントンのご自宅をたびたび訪ねた。ご夫妻ともすでに70歳を過ぎておられたのに、他人に世話になるどころか、海外からの留学生を毎年何人も親身になって手助けしておられる姿が大変印象的だった。洗礼を受けた時もとても喜んでくださり、その一方で、教会の正式なメンバーとなったことに伴う責任について教えさとすことも忘れず、教会では奉仕を強制されることは決してないが、それだけに、言われる前に自分ができることを考え、自ら進んで仕事を引き受けることが非常に大切であり、コミュニティのために奉仕できることを心から喜ぶ1人1人の気持ちがなければ教会という制度は成り立たないと語られた。アメリカ留学から帰った人々が日本人の"背骨のなさ"を嘆くことが多いのは、このような制度を持たないわれわれに「他人に頼らない強さ」と「他人をわけ隔てなく受け入れるやさしさ」が欠けているからではないだろうか。そして、その2つのことは、よりマクロな視点でとらえれば、まさにこのエッセイで述べてきた「自由競争と自助努力の必要性の認識」と「差別や偏見を許さないシステム作り」に対応しているように思われる。仮にアメリカにおいて原理原則が明確にされる傾向がキリスト教の影響であるとしても、そのこと自体は、キリスト教国でない日本がアメリカをモデルとして合理的な原則に従った法制度を整備することの困難さを示唆するとは限らない。今こそわれわれは、これまでの「受信」の不十分さを率直に認め、原点に立ち返って謙虚にアメリカに学ぶべきだろう。
 もはや当初予定の分量を大幅に超過した。筒井康隆氏の小説「文学部唯野教授」には話し始めると止まらない教授たちが登場するが、その卵である大学院生にも同じような傾向が少しずつ認められるのかもしれない。もともと「学者」を表す英語"scholar"は、「ひまな人」を意味するラテン語から来ているという。わが国のアメリカ化の"底の浅さ"を見抜いた西洋史学者の故会田雄次教授(京都大学)と英文学者の佐伯彰一教授(東京大学)の興味深い対論「山本七平と日本人: 一神教文明のなかの日本文化をめぐって」からの引用をもって本稿を閉じたい。
「会田 アメリカ、アメリカということで目標にしてきたようでいて、日本自体はライフ・スタイルをはじめ、あらゆる面でアメリカ化しながら、宗教、人生観、社会意識、政治感覚やら趣味など、アメリカそのものとはまったく異質の発展をしてきている。いったいどうなっていくんですかね。うまくいくとは思えないんですが。
佐伯 僕なりにこの50年を総括してみると、結論としては、結局日本は自分に合う程度ではアメリカ化したけれども、アメリカのイデオロギー的な主張、イデオロギーとしてのアメリカニズムってのは、そんなに受け入れてないんじゃないかと思うんです。もともと、こんな人種構成から言っても、あるいは歴史から言っても、それほど異質的なものが、アメリカニズムってのを、この半世紀たらずの間で、理解できるはずがないので、ある意味で至極当然なんですが。例えば、映画とかその他音楽とか、さらには風俗面で見れば、相当にかぶれて、どっぷりとつかったような時期もあったけれども、そういったものも結果から見ると、いかにも日本的なサイズやなんかに合わせてやっていた。現実にいま、日本の留学生や旅行者が増えて向こうへ行ってみると、思いがけない事件にぶつかって、アメリカをいかに知らなかったか、いかに違うかということにびっくりすることが多いでしょう。アメリカっていうと、日本人は全部わかっちゃったような気がしているけど、じゃあそこまで本当にイデオロギーとしてのアメリカニズムってものを受け入れたのかっていうと、そこは違う。ある意味では、ちっともわかってはいないという気もしているんですけどね。
会田 アメリカを本当に受け入れて理解するんだったら、みんなクリスチャンにならないとだめですね。日本人は全部クリスチャン。
佐伯 だから、そこなんですね。もともと、アメリカという国はクリスチャン、それも厳しすぎるほどのピューリタンによって成立している。だから日本人は、いかにアメリカ化したとは言っても、クリスチャンの数が1%を超さないということは、結局、アメリカ化してる度合いは1%でしかない。」


安部 圭介(あべ・けいすけ)

1969年11月福岡市生まれ。1985年久留米大学附設中学校卒業(14回生)、1988年附設高校卒業(36回生)。1992年東京大学法学部卒業。1994年東京大学大学院修士課程修了(英米法専攻)。1996年ハーヴァード大学大学院修士課程修了。ワシントン大学法学部客員研究員、アメリカ自由人権協会(ACLU)サマー・インターンを経て、1997年9月帰国。現在、東京大学大学院博士課程在学。ニューヨーク州弁護士。日米法学会会員、比較法学会会員。なお、このエッセイについてのご意見その他メッセージのある方は、e-mail: jj47007@j.u-tokyo.ac.jp または 〒113-0033 東京都文京区本郷7-3-1 東京大学法学部研究室3号館427号室まで。

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