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地方分権論

47回生  伊藤 拓也

<小林市の住民投票>
 機会あって宮崎県小林市の住民投票(平成9年11月)について調べることがあった。産業廃棄物処分場の建設をめぐって、健康被害や農産物のイメージ低下を恐れる反対派と、市の活性化と不法投棄防止を期待する賛成派が争ったものだ。結果は賛成30.47%、反対44.52%(いずれも有権者数に対する割合)で、はっきりと反対派の勝ちとは言えないかもしれない。ところが県は初めから、市民投票の結果の如何にかかわらず建設を認めるとしていた。
 これは機関委任事務という仕組みのためだ。業者から申請があった場合、県は国の設置基準に適合しているか審査した上で、適合していれば市町村や住民の意思とは無関係に設置許可を下さなければならない。許可しなければ訴えられる。さらに先日厚生省は道府県に「産廃処分場建設に住民の同意はいらない」という通知をだした。住民の健康や利害に結びつくことであるのに住民の意思がまったく考慮されないというのはおかしくはないか。

 日本は権限を東京に集中することで成長を成し遂げてきたが、地方に判断を委ねたほうが良いことも、小林市の場合のように多々生まれているものと思われる。以下、そのことについて書きたい。

<中央集権モデルと地方分権モデル>
 ここでは集権・分権を一般論として考えたい。中央集権とは情報を一箇所に集積して、そこで判断を行ない、末端に指示を出すシステムだ。その場合、次のふたつの危険性が生まれる。ひとつは、中央と末端との連絡が十分でないと、現場の状況を中央が誤認した結果、誤った処置や対策をとってしまうという危険である。中央は特定の現場の問題だけを処理するのではないから、それぞれの実情を十分把握できるわけではない。そのため、どうしてもすべての患者に同じ処方を与えることになる。また逆に住民からの監視もしにくい。もうひとつは、万一中央が混乱したとき、現場も麻痺してしまうということである。すべての情報を中央に集積しているため、それに伴うリスクも集積されるのである。阪神大震災のとき、もっと現場が権限をもっていれば迅速な動きができたと思えることはいくらでもある。これを言い換えると、「危機管理」という言葉になる。中央集権モデルは危機に弱い、ということが言える。
 一方、地方分権モデルにも欠点がある。各地方がそれぞれの判断をする結果、横のつながりが維持できず、共通の目標(例えば地球環境問題)を達成する力が弱まるという問題である。とくに「タコツボ型」といわれる日本の場合、そういうことは大いに危惧される。したがって分権モデルをとる場合、地域どうしのネットワークをどう作るか、または意見をどうリードしていくかが最大の課題となる。

<日本史における地方分権>
 日本史の中でどの時代がいちばん好きか、と聞かれて平安時代とか近代を答える人はあまりいないようだ。たいていは中世から近世まで、あるいはせいぜい明治時代までだ。貴族が京に閉じこもって地方の実情を無視した政治をやっていた時代に対して、日本史の上で中・近世はある種の魅力を放っている。それは地方分権社会の持つリアリズムと言ってもいいかもしれない。鎌倉彫刻が与える親近感の所以である。
 幕末のことを考えてみたい。幕府が官僚制に浸蝕されてペリー以下の国難に対処する能力を失ったとき、薩摩や長州の雄藩が興っていなければ日本は植民地化されていたかもしれない。地方が人材を中央に提供したことでその危機を回避できた。これと同じようなことはもっと後にも起こった。戦後荒廃した都市に労働者を送り込んで日本を復興させたのも地方だった。大雑把な言い方をすれば、中央が死んでも地方が元気なら日本は必ず生き返ってきたということだ。分権は充電の時期といってもいい。
 江戸幕府の話が出たついでに言っておくと、徳川家の発明した幕藩体制は、分権モデルをとりながらも前述の危険性−地域どうしの政策の統一がなくなりやすい−を、「公儀」というものをおくことで解決している。江戸幕府が260年以上もつづいたのには理由があるのだろう。

<国際化と地方分権>
 分権は充電の時期だといっても、今からは充電どころか国際化がどんどん進む時代だと思うかもしれない。そして分権と国際化は矛盾する概念ではないか、と。しかし長野オリンピックの開会式を見ていると、分権が国際化の必要条件だという気がしてきた。
 誰が言いだしたのかは知らないが、私もこれからの方向として国際化は正しい指標だと思う。だが、誰だったか、国際化国際化と題目のように唱えているのは日本人ばかりだと指摘した人があった。英会話の勉強が国際化ではないのだから、日本がどういう情報を発信するのかを考えなければ意味がない。
 長野五輪の開会式を見ていて思ったのはこのことである。「御柱」なる諏訪の祭りが出てきたり、寒風吹き荒ぶ中、関取衆が出てきたりする。これは、日本が世界に見せられるものはこれだけしかありません、ということを宣言したようなものだ。
 日本の文化を紹介するといって、「今の」日本を紹介する人はいない。アメリカ人なら、ハンバーガーとコーラの文化(文明?)だとしても、それはそれで威張って見せられる。ヨーロッパは歴史があるからまずそれを以て外国人の尊敬を勝ち得るけれど、今現在の文化だって歴史の一部みたいなものだから外国に見せてまったく恥ずかしくない。しかし日本の文化というと、どうしても「能」だったり「歌舞伎」だったりするのだ。
 したがって本当の国際化を実現するならば、即ち双方向の情報発信を目指すならば、今のところローカルな祭りや伝統芸術の中から新しい情報を生み出していくしかないということだ。そういった文化は分権的に育てていくものであり、分権社会の多様性からしか生まれない。「ローカル」こそ「グローバル」という逆説は意外に真実を衝いている。

<内憂外患の時代に>
 国債が莫大な金額に膨れあがっている。官僚のモラルが低下している。これが内憂である。内憂だけでは国はつぶれないが、「外」の方もアジア諸国の膨張によって不安定な時代に入っていくだろう。K国とC国の指導者は期待できそうだが、戦前日本と同じようにイデオロギーで動きかねない国もある。こういった不安定な状況から日本に未曾有の外患が見舞う可能性は大いにある。そのために今、地方に充電しておくべき時代だ。

 現実の政局は色々あるだろうが、これからの方向という意味で地方分権を考えてみた。ただし地方分権を進めるとき、条件がふたつある。第一に地域どうしのネットワークを維持すること。分権社会の無責任性を防ぐためである。第二に住民が積極的に行政を監視すること。少なくとも行政は中央よりは地方の方が監視しやすいはずだ。そしてもちろん住民側も地域間のネットワークを維持して、全体的な視野で監視しなければならない。


伊藤 拓也(いとう・たくや)

現高校3年

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