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映画を通じて出会った人々

31回生  浜野 浩一

 洋画配給会社の宣伝部勤務になって最初に担当した来日スターはジョン・ローンだった。柳町光男監督の「チャイナシャドー」に主演した時のことである。映画の方は柳町監督の持ち味が発揮できず、失敗作に終わったが(「いやー、ぼくは何度自殺しようと思ったか」とクヨクヨしていた監督の姿が忘れられない。ぼくのごとき新人宣伝マンにこんな愚痴をこぼすなんて、なんて正直な人だ!と妙に感動したものだ)、一流ホテルのスイート・ルームでまのあたりにした「ラストエンペラー」の国際的スターはさすがにかっこよかった。幼い頃から京劇で鍛えた強靱な精神を漂わせる美しい顔、そしてソフトな声・・・東洋的神秘をたたえたその深く黒い瞳をしばしうっとり眺めた後、視線を落としていったぼくは、しかし、次の瞬間、「ん?」。幼い頃から京劇で鍛えたはずのジョンのおなかにポッコリと、古墳のごときふくらみが! そう、彼は幼児体形だったのだ(それとも単なる中年太り?)。だがそこは世界のジョン・ローン、取材客の前に立つ時には、幼い頃から京劇で鍛えた腹筋を駆使し、見事にポッコリを消してみせるのだった。

 女優というのは、有名になればなるほどマスコミに対してナーバスになるものである。スクリーンの中で人工的に作りあげられたイメージを、スクリーンの外でも維持しなければならないのだから、その気苦労たるや推して知るべし。大女優カトリーヌ・ドヌーヴ(このお方、名前の前に枕詞として必ず"大女優"をつけるのがならわしとなっている)などは、おかかえの付け毛スタイリスト(そう、あの見事な金髪は付け毛だったのだ!!)を従えて来日し、納得のいくメイクが完成するまで一時間以上も取材客を待たせて超然としていた。まあ、ドヌーヴ・クラスの人ならそれも許せる。だが、そこまでやるか、と呆れたのは「ニキータ」のアンヌ・パリローの時だった。彼女は自分の顔を左側から撮られるのが我慢ならない。どう撮ろうが美人なんだからいいじゃないか、と思うのは天からスター顔を授からなかった者の野暮な理屈であるらしい。それにしても取材写真のネガを自ら全カット、チェックして、気にいらないのはその場で破棄する、と言われては、カメラマンだってこれでメシ食ってるプロなんだからカチンとくるわな。すったもんだ、喧嘩ごしの押し問答が延々続いた末、ネガにバツ印をつけることで一件落着。その後彼女は某国営放送の生番組に出演するためスタジオ入りしたが、ここでもひともんちゃく。彼女の椅子がセットの上手側にあったのだ──つまりカメラがとらえるのは禁断の左顔・・・。インタビューの打ち合わせもそっちのけで、あーだこーだとモメた末、彼女はカメラに左顔を向けない座り方で応じることにした。本番中、彼女がインタビュアーの方に顔を向けることは遂に一度もなかったのである。

 リヴァー・フェニックスと会ったのは、彼がアルコールとドラッグのために短い命を散らせる二年前のことだった。「スタンド・バイ・ミー」の子役スターから出発した彼は、その後、順調にキャリアを歩み、若手演技派へ成長しているように見えた。彼がベジタリアンだったことは有名である。動物の命を奪うのはよくないことだ、とまだ幼い頃に決心して以来、肉類はおろか卵も食べないというし、普段身につける物にも革製品は使わないという徹底ぶり。以前、来日した時、配給会社は気をきかせて彼を蕎麦屋へ招待したが、真っ先につけ汁をクンクンして「魚だ」と言ったきり箸をつけなかったというエピソードが残っている。クソがつくほど真面目な人柄だったのだろう。それだけに何かにつけ思いつめてしまうこともあったのに違いない。「マイ・プライベート・アイダホ」の宣伝で来日した時、ぼくはほんのわずかな時間、彼と接したにすぎなかったが、「スタンド・バイ・ミー」の根性のすわった鋭い目をした少年と同じ人物とは思えないほど、彼の視線は虚ろにさまよいがちで、取材中もソファの中で常に落ち着きなく体をモゾモゾさせていたのが気になった。その時は旅の疲れだろうぐらいに思っていたのだが、或いはあの頃、彼の苦悩は既にアルコールやドラッグに頼らざるを得ないところまでいっていたのかもしれない。取材の合間、煙草を吸っている彼と目があった。「内緒だぜ」と言って照れ臭げに笑う彼の瞳がどこか寂しそうだった。

 ハリウッドは才能を食い物にする場所である。メジャーの映画会社の作品で監督が最終編集権を握っている例はほとんどない。心ある監督たちは、興業成績のことしか頭にないプロデューサーたちの商業主義に食いつぶされ、自分が心血を注いだ企画が他人の手でズタズタにされた挙げ句、"娯楽作品"となった完成品のクレジットに我が名を見て、苦い酒をあおることになる。マイケル・チミノ監督がそうだった。「ディア・ハンター」の名匠は次作「天国の門」で作家として完全主義を貫いたが、その結果、無残な興業成績で名門ユナイトを破産させ、長く干される身となった。そんな彼を拾いあげたのは「キングコング」(76年版)などの大作で知られるイタリア人の大物プロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスである。彼のもとでチミノはミッキー・ローク主演の二作「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」と「逃亡者」(90年版)を撮り、映画監督として復活した。だがこれらはいずれも他人の脚本を映画化したものであり、チミノはあくまで職人監督に徹したにすぎない。「逃亡者」で来日した時の彼はアルコールなしでは生きていられない状態だった。ぼくは彼のためにお気に入りのワイン"シャブリ"を注文し続け、夜は六本木でスコッチをあおってご機嫌の彼と雑談に興じた。気さくで穏やかな人物で、黙って人を観察しているのが好きだった。取材中、口論になった相手を後から夕食に招くという気づかいを見せる場面もあった。雑談の中で次回作のことを聞いてみたら、ジョン・ローン主演でネイティヴ・アメリカンの歴史を撮りたいが、金を出してくれるプロデューサーがいないと言っていた。それから6年後、ようやく彼が撮ったのがネイティヴ・アメリカンの少年と白人医師のロードムービー「心の指紋」である。作家監督としての復活の一歩を見たようで、ぼくは少しうれしかった。

 インタビューの仕事を多くしていた頃、有名な俳優に会えていいね、とよく言われた。だがスクリーンの中の彼らと、普段の彼らとは別人である。中にはロビン・ウィリアムズのように、映画の中のイメージを崩さないサービス精神旺盛な人もいるが、幻滅させられることも少なくない。仕事で会うわけだから、必ずしも自分がその人のファンとは限らない。ぼくは最近はインタビューの仕事からは遠ざかっている。機会があればまたやってみようとは思っているが、それは概して人が想像するほどうらやむべき仕事でないことは事実だ。ぼくは映画関係の仕事で口を糊するかたわら、翻訳舞台劇の演出もしているが(こっちはテンで金にならない)、俳優という人種がもっとも美しく生き生きと輝くのは、観客に観られている時だとつくづく感じる。どうせ仕事で会うなら、楽屋で化粧を落とし、或いはキャメラの前から去った後の彼/彼女らよりは、輝いている瞬間に立ち会っている方が遥かに楽しい。
 それに比べれば監督は遥かに当たりはずれがないと言える。大勢の俳優やスタッフを御し、一本の作品が完成するまでの長い期間、様々な困難や障害を乗り越えていかなければならない職業だから、どうしたって人間としての大きさが必要とされる。時にはそれを独裁者的狂気で乗り切っていく監督もいるが、ぼくが会った監督たちは総じて皆"大人"であった。中でもいちばん感銘を受けたのが「セブン・イヤーズ・イン・チベット」のジャン=ジャック・アノー監督である。彼はどんなインタビュアーに対しても、じっとまっすぐ相手の目をみつめ、どんな愚かな質問にも嫌な顔ひとつせずに誠実に答えを返す人だった。そこにはすべての人間に対する敬意が感じられた。取材の合間に、ニューヨークで映画を学びたいと相談するぼくの同僚へもていねいに助言を返していた。そばで見ていたぼくは、ああ、この人は肩書きで人を差別することのない人なのだと心から感じ入り、こういう"大人"になりたいと思ったものである。この人は映画監督であるために映画を撮っているのではなく、一個の人間のひとつのあり方として映画を撮っているのだと思わせる、そんな大きさと豊かさを感じさせる人だった。
 願わくばアノー監督のようにありたいと心ひそかに思いながら稽古場に通うぼくだが、道は遥かに遠そうである。


浜野 浩一(はまの・こういち)

 1964年、福岡市生まれ。一橋大学中退後、映写技師を経て日本ヘラルド映画に勤務。その後フリーライターとなり、映画記事を手がける一方、翻訳・演出家として英米の現代戯曲の上演活動を行っている。

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