第28回男く祭記念文集 [ 目次 | 前のページ | 次のページ ]

美術史とは何か

35回生  金井 直

 みなさんは大学の教科、一般教育科目として美術史を選択し、今、この場に集っています。高校時代にはおそらく学ぶことのなかった教科に何を求めていますか。美術史にどのようなイメージを持っていますか。もちろん、みなさんにとってもっとも重要なのは、この教科が楽勝科目であるという事実かもしれません。まず申し上げます、この期待を裏切ることはない、と。
 が、そのうえでもう一度質問します、みなさんは美術史に何を求めますか。今、すこしだけ考えてみてください。
 かつてのように学問の自律が理想であったころならば、こんな問いはまったく無意味なものでした。ひとつの学問の意義は、その学問を深めることにあったわけですから。美術史を学ぶのは、より深い美術史を求めるがゆえだったのです。こうした学問のための学問、美術史のための美術史というトートロジーは、たしかにある時期においてはひとつの政治的・倫理的態度表明であり得ました。苦難に満ちた時代、それは学問の自由の言い換えでもあったのです。
 自律性、自己言及性、トートロジーの追求は、学問の領域のみの現象ではありません。十九世紀から二十世紀にかけて、大学・学問の制度化と踵をあわせるかのように、芸術の自律性も大いに主張されました。芸術のための芸術という、オスカー・ワイルド流の芸術至上主義から、グリーンバーグによる抽象表現主義擁護まで、芸術というミクロコスモスが絶えず培われてきたのです。とくに近代絵画の歴史は、還元/縮小の歴史として捉えられます。そこでは外部とのつながりはひたすら切り捨てられ、常に自らに自らを重ねながら、絵画の絶対零度が目指されたのです。古めかしい哲学の二分法にしたがえば、形式・内容両面で還元の無限運動が続けられました。リアリズムの台頭による主題の日常化、脱神話化、脱宗教化。印象主義における線遠近法空間の破綻。現実の再現であることを止め、平面に立ち返る抽象絵画。マレーヴィチが《白の上の白》を描いたとき、絵画表現はその極北に達したのでした。
 しかしながら、みなさん承知の通り、今日の芸術は明らかに拡大拡散傾向を示しています。彫刻、絵画、写真といったジャンルの境界は曖昧になり、作品を成立させるうえでの鑑賞者の役割が大きくなってきました。また、作品のメッセージ自体も得てして政治的です。芸術の自律は、もはや色あせた幻想に過ぎません。
 芸術同様、個々の学問の自律性についても、わたしたちはもはや懐疑的です。今日重視されているのは学際性、つまり、いかに多くの他領域と接触できるかという点です。学問の雑種性がその潜在能力のバロメーターとなっているのです。もちろん問題はこの種の学問論のレベルに留まりません。みなさんにとって学問の自律を盲信できない事情、それは学問のために学問をしていても気の利いた就職にはありつけないという現状です。八十年代後半のように、遊び倒そうが、仕事にいっさい役立たぬ学問に没頭しようが、卒業後には無事一流企業に入り込めるといった常軌を逸した売り手市場であれば、四年間ただ一冊の原典だけを読んでいてもよかったのですが、今の学生さんはとにかく忙しい。よい就職をするためにはよいゼミに入り込み、各種セミナーに通い、資格取得に励む。自分の将来設計と接点のない科目に精進するひまはないはずです。下手に学問の罠にはまって進学しても、大学院生が増加する昨今、とくに文系の学生にとっては、そうやすやすと将来の展望が開けるわけでもありません。思うに、大学院はもはや温情的なモラトリアムの場でさえないのです。むしろそれは、日本の失業率を抑える一種の安全弁であるかもしれません。
 話を美術史に戻しましょう。学問の自律を無条件に承認できないわたしたちは、美術史とどのように向き合えばよいでしょうか。美術を社会的コンテクストとは別個のミクロコスモスとみなすことが不可能な状況にある以上、美術史も作品を「美術」という聖域に囲い込んでばかりはいられません。色や形といった造形的特徴、あるいは作者の意図といった、形式的、作品生産的側面にのみ注目してきた従来の美術史は、別のモデルに引き継がれなければならないのです。一例を挙げるならば、女性芸術家の問題があります。美術史の教科書を一瞥すれば、そこが圧倒的な「男社会」であることに気づきます。アルテミシア・ジェンティレスキやロザルバ・カッリエーラ、バーバラ・ヘップバース。優れた芸術家たちですが、みなさんご存知ですか。そもそも女性芸術家が少ないのでしょうか。それとも女性芸術家についての研究が少ないのでしょうか。一般化しにくい点ですが、現実にかなりの数の女性現代美術作家がいる以上、これが従来の美術史と社会構造の二重の偏向の問題であることは否定できません。わたしたちはこの偏向の具合をチェックしていかねばならないでしょう。
 もうひとつ別の例、注文者の問題を挙げておきましょう。従来の美術史が、たとえばルネサンス期の絵を見るときに強調するのは、その造形的特徴、写実性、象徴的意味などでしたが、実際に絵画が描かれた時代の人々は、そこに何を見ていたのでしょうか。当時の注文書を調べることで明らかとなるのは、描かれる人物の数や、使う絵具が注文者の関心をひき、価格を決定していたという事実です。注文の書式と作品享受がダイレクトに結びつくと考えるのは短絡の極みですが、少なくとも純粋に美的な次元で作品の価値が決定されていたのではないという点は強調しておいてよいでしょう。こうした「時代の眼」の再構成は、現在の美術史における重要な課題です。
 要するに、私がここで述べておきたいのは、美術と美術史は無菌装置や癒しの場ではあり得ないということです。感性的なものを扱っているにもかかわらず、いや、むしろそれゆえに、そこはすぐれて政治経済的・イデオロギー的な闘争の空間なのです。たとえば美術館へ行くということを考えてみてください。これを禁じられた体験のある人などほとんどいないでしょう。一般的に、そこは健全な場とされていますから。しかしながら、批判を生じさせずに一種の思考停止に追い込むという意味で、美術館ほど専制的な空間はないのではないでしょうか。そこは美術という美名の下で、すべてを了解させてしまう「悪所」でもあるのです。「感性のままに自由に」という文言そのものが逆説的に、批判的に思考する自由と能力を奪ってしまうわけです。
 とはいえ、わたしたちは否応なく文化的・社会的コンテクストの網目の中に生きていまから、美術館という一種の「悪所」から眼を反らすことは不可能です。またその必要もありません。美術館を墓になぞらえたり、あるいは「芸術」概念を西洋中心主義が生みだしたファンタスムであると言い捨てることで、古代ギリシア以来の懸案である「詩人追放」を果たすことも、やはり体のいい思考停止であり、作品に何となく喜びと愛着を感じる素朴な美術愛好の裏返しに過ぎないのです。むしろ重要なのは、わたしたちが身に帯びる条件において、作品を判定し、なおかつその判定を支えた当の条件を検証する。そしてさらにこの条件の検証結果を作品判定にフィードバックさせるという思考のダイナミズムでありましょう。複数のレベル間で判断・検証を連鎖させる思考的営為が、ユートピアを夢想せず、思想の石化を防ぐ重要な策となるのです。
美術史を学ぶことによって感じていただきたいのは、このような柔らかな思考方法です。美術史に限らず社会の様々な分野で、慣例、常識、真実という名のメドゥーサたちが、流動する現象を「石」に変えていきます。とはいえ、わたしたちはペルセウスよろしくメドゥーサとの勝負に性急に決着をつけるべきではないでしょう。彼女の視線をかわしながら、その顔立ちに目をやる。そんな覚醒と陶酔の狭間に身を置くことはいかにして可能か。この問いに対する美術史の答が、他の多くの分野においても有効な思考のリズムを示すものであれば、と願っています。
(講義ノートに加筆)


金井 直(かない・ただし)

専門は18,19世紀のイタリア美術、とくに彫刻。現在は非常勤講師等をしながら、博士論文を準備中。高2のころから美術史をやるつもりだった。中高大と美術部。我ながら視野が狭すぎる。

第28回男く祭記念文集 [ 目次 | 前のページ | 次のページ ]

Copyright (c) 1998, 金井 直, 第28回男く祭記念文集制作委員会, All rights reserved.