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21世紀はデザインの時代

  河北 秀也

 私は久留米市で生まれ、久留米市で育ちました。附設高校では小学校や中学校もいっしょという友人が多く、東京で出会うと、いったいどこでいっしょだったのか混乱することがよくあります。
 将来デザイナーになろうと思ったのは附設高校の一年生の時でした。ポスターを作ったりするのは、いったいどんな大学のどんな学部に行けばよいのか調べました。
 漠然とですが、社会学とかコミュニケーション学などの分野だろうと思っていました。しかし、いくら調べても普通の大学には、そういった分野、デザインという項目がありませんでした。もちろん、工業意匠とかそれらしきものはありましたが、私がやりたいと思っている分野とはちょっと違うな、と思いました。
さらに調べていくと、東京芸術大学や武蔵野美術大学などの美大にデザインを教える学科がありました。えっデザインというのは美術の一種かと不思議に思いました。そして、この附設高校一年生の時の最初のデザインに対する疑問がずっと残ることになります。
 東京芸術大学の過去の入学試験問題を調べました。これが、やさしいのなんの。附設高校の入学試験の方が難しいぐらいでした。ただ、学科試験問題の後に実技試験アリと書いてあるのが少々気になりましたが、絵はうまい方だったし、こういう仕事をやるための学科なら当然そういう能力も見るのだろうと思っていました。
 進路指導主任の先生に芸大を受けると報告に行きました。
「なに、芸大を受ける。それじゃあ附設では無理だ。芸大は実技試験が中心で大変難しい。もし、本気で受験する気なら、県立の美術部のしっかりした高校に転校しなさい。」と、言われました。
 市内や近辺の県立高校を片っぱしから当たりました。しかし、どこも転校させてくれませんでした。つまり私立高校から公立高校へは転校できない、というのが理由のようでした。一年遅れて、来年また受験するより手がなさそうでした。
 当時、母が病んで大分県宇佐市の実姉のもとにいました。母の看病などを理由にして、何とか大分県宇佐高校という、しっかりとした美術クラブのある高校に転校しました。
 生まれ育った久留米市を離れ、多くの友人とも別れて二年から大分県の高校へ、芸大受験のために転校したのです。結局一浪して東京芸術大学に入学しました。しかし、芸大のデザインに関する授業はピントはずれのまったく、どうしようもないものでした。

 これから、デザインとはいったい何なのかという話をします。まず、デザインは絵や彫刻とは同じようなものではない、ということを言わねばなりません。
「えっ、でも美術の時間に椅子のデザインやポスターのデザインを習ったよ」その通りです。しかし、このことは少し後で述べます。
 たとえば、イギリスではデザインは小学校から必修科目です。必修科目は三科目しかありませんが、その中のひとつがデザインの授業です。美術の中に含まれているのではなく、デザインという独立した授業です。
 どんな授業をするのかといいますと、たとえば牛乳というテーマを取り上げます。そして、私たちは山羊や馬の乳ではなく、なぜ牛乳を多く飲むようになったのか、その歴史的経過や特性、生産地の模様、流通の過程価格の決め方、なぜビンやパックに入れられるのかなど、ありとあらゆる牛乳に関する情報を教えます。また牧場や工場見学なども行います。社会科に似ていますが、社会科ではここまでで終わりです。
 デザインの授業はここから始まります。小学生の少ない知識と経験をフルに動員して、さらに牛乳をおいしく、安く飲めるようにするためには、どうしたらよいだろうと考えます。
 私たち日本人は、小、中、高校と多くの知識を学びます。社会科で世界の国々の首都を覚えたり、理科で動物や植物の名前を覚えたりしてきました。しかし、そうやって覚えた知識を、社会をもっとよくするためにとか、自分が幸せに生きるために、どういうふうに使っていったらよいか、という教育はほとんど受けていません。
 覚えておかないと試験に受からないからとか、たぶん覚えておけば大人になって役に立つんじゃないか、という程度でしょう。
 日本は、第二次世界大戦に負けた後の国家方針を産業重点政策と決めました。そして、そのための行政組織や教育方針が決まりました。現在の小、中、高校の教育プログラムも、この大きな国家方針によって行われてきました。
 まさに、私たちやあなたたちが受けてきた教育です。
 例をあげましょう。外国へ行くと、1、2年しか日本語を学んでいないのに、日本の古典文学に精通していたり、敬語まできちっと使って話しかけてくるような外国人に出会ってびっくりすることが、よくあります。
 私達はどうでしょう。中学、高校と6年間も英語を学んできたのにペラペラと英会話ができる人はほとんどいません。なぜでしょうか。日本は、文化の凝縮したものである他国言語を文明として教育に導入しました。つまり、欧米の進んだ産業技術やシステムを学ぶために、英語が読み書きできる能力、つまり英文解釈や英文法を教えてきたのです。数学や物理の方程式や公式と同じように英語を位置づけました。
 言語は文化が凝縮したものです。文化的理解なしに、他国言語を学ぼうと思っても土台無理なことなのです。たとえば、日本国内だけ考えても、これだけ毎日テレビやラジオで標準語を聞いていても、私達は一山越えれば、ひとつ川を渡れば微妙に違う言葉、つまり方言を話しています。この村と隣の村とでは文化的土台、暮らしが少しづつ違うのです。
 単語数を調べてみると、英語は日本語の約3倍あります。日本語は漢字やカタカナ、ひらがな尊敬語や謙譲語があって多そうに思いますが意外に少ないのです。
 日本語の会話には上下関係で成り立っています。一方英会話は人間の尊厳が基本になっています。X軸とY軸みたいなもので二つの接点は、それこそ点ぐらいしかありません。
 日本語の会話は会話する同士の差異によって成立しています。日本人はお互いに差異が発見できないと一向に会話が進みません。たとえば歳はいくつとか、どこの出身とか、大学はどこかとか、自分との差異によって上下関係を決めた上で会話を始めます。だからビジネスマンは最初に名刺を交換するのです。
 一方、英会話は人間の尊厳、つまりお互いに腕を切れば真っ赤な血がでるじゃないか、ということを基本に会話を進めます。だから、名刺を交換したり、歳を聞いたりする必要はないのです。この文化的な会話の差を知らなければ、外国人同士のコミュニケーションは成立しません。
 産業重点政策の国家方針では創造的能力をまったく必要としませんでした。とにかく欧米に学べばよい、ということで教育もそのようにプログラムされてきました。あなたたち附設高校生も例外ではありません。今でも、その教育方針の中にいます。
 産業社会は、モノを大量に製造し、大量に頒布して成立する社会です。ところが同じ性能で同じ価格の商品が二つ以上の企業から生産されるようになりました。形がきれいだったりかっこうが良いものがそうでないものより売れるということが起こってきました。そこで企業では工作が上手な人が必要になりました。次にただ作っただけでは売れないということがわかってきました。商品を知らせなければなりません。当時は印刷技術がだんだん発達していた時代ですから、絵のうまい人や美的センスのある人にパンフレットやポスターなどを作ってもらう必要が起こりました。
 こうして、美術大学の中に応用美術と位置づけて生まれたのがデザイン科です。さきほどのイギリスの学校で行われているデザインの授業とは、全然違うところから生まれています。日本の美術大学にあるデザイン科は産業デザイン科と言った方が正確です。

 デザインとは人間の創造力、構想力をもって生活、産業、環境に働きかけ、その改善を図る営みのことです。つまり、人間の幸せという大きな目的のもとに、創造力、構想力を駆使し、私達の周囲に働きかけ、さまざまな関係を調整する行為を総称して「デザイン」と呼んでいます。
 「創造的調整」これがデザインの意味です。産業社会では、デザインの方法論を「売れるモノを作る」という一点に集約し、産業デザインとして利用したのです。
 デザインの能力は、あらゆる職業の人に必要な能力です。どんな大学にもあるべき学位だろうし、初等教育から必要な授業でもあります。
 これからの日本では、創造力が必要です。しかし、そのための教育をまったく受けていないみなさんが心配でなりません。


河北 秀也(かわきた・ひでや)

1947 福岡生まれ
1971 東京芸術大学卒業
1974 日本ベリエールアートセンター設立主宰、現在に至る。
1981 作品集「河北秀也の東京グラフィティ」(平凡社)
1989 著書「河北秀也のデザイン原論」(新曜社)
1995 英文著書「ON DESIGN」(EHESC)
1996 作品文集「風景の中の思想/いいちこポスター物語」
「風景からの手紙/いいちこポスター物語U」
「透明な滲み/いいちこポスター物語V」(ビジネス社)

●1974〜1982 東京営団地下鉄のマナーポスターシリーズ、マリリン=モンローの「帰らざる傘」、チャップリンの「独占者」など、次々に傑作を作り一躍有名となる。
●1983〜 焼酎「いいちこ」の商品企画/広告/ポスター等を一手に企画製作し日本No.1、世界蒸留酒ランキング第3位の商品に育てあげる。
●現在、地域振興計画、環境デザイン、商品企画、グラフィックデザインからパッケージデザイン、広告等幅広い活躍をしている。
●東北芸術工科大学教授、東京芸術大学非常勤講師 他

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